北海道松前郡 法幢寺/松前藩松前家墓所

松前城の北側は非常時の外衛的役割の為、
寺を集中的に配置した寺町となっています。
江戸時代初期より周辺の寺が移設され、
当時は15の寺がありました。
しかし松前城攻防戦における戦火により、
その殆どが焼失してしまい、
後に移転した寺も数多く、
現在は5つの寺が残るのみとなっています。


寺町」。
当時の寺町の道路は現在の半分ほどで、
あとの半分は堀であったという。


法幢寺」。
藩主家松前家の菩提寺
この寺も放火されて本堂は焼失しますが、
山門と位牌を安置した御霊屋は焼失を免れ、
当時のまま残っています。

寺町は防御のために配置したのでしょうが、
実際に攻めらると敵が隠れるのに絶好で、
燃やしてしまったのでしょう。
なんとも理不尽ですが主力が館城へ移動し、
寡兵で守る為には寺町側の防御は不可能。
焼失させて侵入を防ごうと思ったようです。


松前藩主松前家墓所」。
法幢寺の裏手・・というより斜め後ろ。
寺域的には法幢寺なのでしょうが、
隣の法源寺に近いようです。
参道は法幢寺と法源寺の間の道で、
裏門?は法幢寺と繋がっていました。


まずは石造りの霊屋に驚きますが、
それよりもそのサイズ
小さくてとても藩主の墓とは思えません。
大大名から小大名まで、
色々な大名家墓所を訪問していますが、
墓石のサイズ的にかなり小さい部類。
また墓所は藩主、正室、側室、子女まで、
分け隔てなく仲良く並んでいます。
これも驚き。
藩主も側室も覆屋のサイズが一緒で、
文字通り家族といった感じです。


十七世 崇広 十三代藩主」。
幕末の藩主13代松前崇広の墓。
学識に優れ西洋通の藩主だったとされ、
彼の写真が残されていますが、
少々太めながら鋭い眼光と凛々しい顔で、
その優秀さが写真から想像できます。
外様大名ながら老中に任命され、
陸軍兼海軍総裁にも就任。
神戸を開港させて朝廷に睨まれた為、
松前に帰国した後に急死しました。
彼が藩政のみに集中していれば、
松前藩は面白かったかもしれません。


贈従四位館城主松前志摩守
 源朝臣徳廣之墓」。
十八世14代藩主松前徳広の墓。
前藩主崇広の急死で藩主となりますが、
薄弱で政務は出来なかったという。
案の定、家臣らの政争は激化し、
勤皇派は徳広を掌握して、
藩政を担う筆頭家老松前勘解由らを罷免。
勤皇派政権は新政府に恭順しますが、
旧幕府軍の攻撃を受ける事となり、
海を渡って弘前に亡命する事となります。
徳広は弘前の薬王院で喀血し死去。
一時長勝寺に仮葬された後、
明治3年にここへ改葬されました。


松前修廣之墓 松前家一族之墓」。
最後の藩主15代松前修広と以後の一族の墓。
徳広の死去で家督を継いだ修広でしたが、
所領は旧幕府軍に奪われていました。
翌年に松前を奪還して旧領を回復しますが、
廃藩置県によって松前藩は消滅。
免官となって東京へ移り住みますが、
その後の生活に困窮していたのか、
証券印紙税則違反で逮捕されて、
罰金刑となっています。

松前家墓所は最北端の藩主家墓所。
その極寒の大地にある一族の墓所は、
藩主、正室、側室、子女が寄り添って並ぶ、
一家族の墓所のようでした。

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東京都文京区 吉祥寺/松前藩松前家墓所
 江戸にある3、8、10代の墓所。
青森県弘前市 薬王院
 松前藩主一行が滞在した弘前の寺院。
青森県弘前市 長勝寺
 徳広の遺骸は一時長勝寺に埋葬。

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