つづき。
①/②
資料館を出て南側へ。
「二重太鼓櫓跡」。
津軽海峡の臨める二重太鼓櫓があった場所。
名称どおり太鼓が置かれていたようで、
城下に時を知らせていたようです。
「東郭隅櫓跡」。
名称のわりに隅にはありません。
「内堀」。
内堀は東側にしかありません。
当時はこの堀の上に橋が掛けられて、
本丸表御殿に入れるようになっていました。
「本丸跡」。
内堀を北に周ると本丸跡。
表御殿などの建物が建てられており、
松前城以前の陣屋福山館も、
この場所にありました。
「闇の夜の井戸」。
ホラー漫画のタイトルのような名称の井戸。
6代松前矩広を諌めた丸山久治郎兵衛は、
他の家臣に謀られて井戸へ下りる事となり、
上から大石を投げ入れられて殺されます。
その後、家中で不幸な事が起こったため、
祟りであると井戸を埋めようとしますが、
土砂を入れても埋まらなかったという。
井戸は本丸御門前にあったとされますが、
祟りは消えたのか現在は井戸は埋められて、
井側のみが本丸跡に移されています。
「耳塚」。
闇の夜の井戸の隣には、
シャクシャインとの戦いの際、
処刑したアイヌ首謀者の首の代わりに、
耳をそぎ落として持って帰り。
それをここに埋めたという。
アイヌの首長シャクシャインは、
松前藩との交易の不満から、
周辺の集落に呼びかけて一斉蜂起し、
松前藩の役所や交易商船などを襲います。
この反乱に対して松前藩は応戦し、
幕府による援軍要請によって、
弘前藩、盛岡藩、久保田藩が出兵。
戦いは決着がつかず長期戦となった為、
松前藩はアイヌ勢に和睦を申し入れ、
シャクシャインはそれに応じました。
しかし和睦に出向いたシャクシャインは、
酒宴の席で謀殺されてしまい、
指導者を失ったアイヌ軍は衰退。
松前藩のアイヌ支配が強まっています。
「松前神社」。
松前家の祖である武田信弘を祀る神社。
本丸跡の北側にあります。
「縁結びの木」。
二股に分かれて伸びた幹が双方繋がった木。
手をつないでいるように見えることから、
縁結びの木と呼ばれています。
全国にある夫婦岩なんかもですが、
こういう感覚は嫌いではありません。
縁結びのご利益は必要ないですが・・。
「贈従五位田崎君碑」。
境内にある松前藩士田崎東の顕彰碑。
田崎は松前藩勤皇派である正義隊の一員で、
日和見政策を続ける藩政府に対して、
クーデターを起こしました。
これによって旧幕府軍と敵対する事となり、
松前城及び館城は旧幕軍の攻撃で落城。
松前藩兵は弘前まで撤退します。
翌年に蝦夷共和国への攻撃が始まると、
松前藩の先鋒部隊副隊長として従軍し、
矢不来の戦いで戦死しました。
幕末の松前藩は北方警備の役割を担い、
松前城の築城を許されました。
日米和親条約によって箱館が開港されると、
幕府は蝦夷の直轄化を進め、
渡島半島南西部のみが領地とされ、
代わりに梁川など3万石が与えられます。
慣れない飛地経営や貿易の削減により、
松前藩の財政は困窮しました。
12代藩主松前崇広は老中となり、
第二次長州征伐の際には、
陸軍兼海軍総裁にも任じられていますが、
同老中阿部正外と神戸開港を決定した為、
朝廷によって官位剥奪、謹慎の勅命が下り、
幕府はやむなく2人罷免しており、
崇広は松前に帰国します。
帰国後間もなく崇広は熱病で死去し、
代わって松前徳広が藩主に就任。
徳広は病弱で藩政に関与できず、
筆頭家老松前勘解由が藩を運営しました。
この勘解由は箱館にペリーが来航した際、
松前藩の主席応接使を務めた人物で、
ペリーの要求にのらりくらりで切り抜け、
「松前勘解由のこんにゃく問答」
と有名になっていました。
後に日和見の政策が非難され、
クーデターが勃発し勘解由は失脚。
武力鎮圧を思い留まって自ら謹慎し、
失意のうちに切腹しています。
政権を掌握した正義隊は旧幕軍を警戒し、
海沿いの松前城から館城に政庁を移転。
旧幕府軍は箱館の五稜郭を占領した後、
土方歳三率いる700名が松前城を攻撃し、
松前城は数時間で落城しました。
陥落後の松前は蝦夷共和国に支配され、
松前奉行所が置かれて、
人見勝太郎が松前奉行に就任。
松前藩は館城や江差を拠点とし、
態勢を立て直そうとしますが、
これに松岡四郎次郎率いる200名が、
館城への攻撃を開始します。
法華寺の僧三上超順の奮戦もありましたが、
館城は落城し松前兵は敗走し、
藩主以下藩兵は弘前に落ち延びました。
翌年の新政府軍の攻撃では、
松前藩は新政府軍の一員として従軍。
松前城を取り戻しています。
正義隊は旧幕軍に着いた者の処罰を開始し、
90余名にものぼる処刑者を出しました。
また財政も逼迫した為に借財が増え、
藩札の大量発行も行われています。
この状況に正義隊に対する批判が起こり、
正義隊とその反対派が対立。
藩政は不安定な状況となっていましたが、
廃藩置県によって館県となり、
すぐに弘前県に合併されてしまい、
対立はうやむやのまま藩は消滅しました。
【松前藩】
藩庁:松前城(後に館城へ移転)
藩主家:松前家
分類:1万石格、外様大名
①/②
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土方歳三は法華寺より砲撃しました。
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旧松前藩兵を祀る招魂社。