南洲墓地にある桐野利秋の墓。
「桐野俊秋墓」。
総司令兼四番大隊指揮長桐野利秋の墓。
※肩書は西南戦争時のものとします。
幕末期は中村半次郎と称しており、
人斬り半次郎の渾名でも知られます。
※記録に残る人斬りは1件のみ。
城下士中村与右衛門の三男に生まれ、
父の流罪や兄の死が相次ぎ、
幼い兄弟を農業で家計を支えたとされ、
精忠組の士とも交流があったという。
京都詰めとなると諸国の志士と親交し、
西郷隆盛や家老小松帯刀に用いられ、
八月十八日の政変後の長州藩や、
天狗党の乱で混乱する水戸藩など、
偵察に派遣されています。
長州藩寄りであったようで、
薩長同盟の締結に精力的に奔走。
鳥羽伏見の戦いでは城下一番小隊に属し、
後にその隊長となりました。
西郷と山岡鉄舟、勝海舟の会談に同席し、
上野戦争にも参戦。
会津戦争では新政府軍を代表し、
開城後の若松城の受取役を務め、
会津藩の心境を想い涙したとされます。
明治4年の廃藩置県後は、
陸軍に出仕して陸軍少将となり、
明治5年には鎮西鎮台司令長官を拝命。
明治6年に陸軍裁判所所長を兼任しますが、
西郷の下野と共に辞職しました。
鹿児島に帰ると開墾に従事しましたが、
私学校が設立されると開墾の指導を担当。
明治10年に西郷刺殺計画が疑われ、
大評議で前後策が議論されると、
大軍を率いて上京する策を支持し、
この議論を主導したとされます。
編成では総司令兼四番大隊指揮長となり、
かつて務めた熊本城を攻撃。
その後は田原坂の戦い、城東会戦、
人吉攻防戦を経て宮崎で指揮を執り、
薩軍解兵後は西郷に従い城山を占領。
西郷の死を見届けた後も戦い続け、
銃撃されて戦死しました。
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