庄内藩では幕末より釣りが盛んだったらしい。
昔から釣師の間では庄内竿は有名で、
名竿は名刀よりも価値があったとか。
庄内藩主も釣りを奨励していたようで、
釣場に行くのも鍛錬、魚との駆け引きも鍛錬と、
武芸のひとつとしての釣道であったらしい。
そういうわけで、
釣りに行く事を「勝負に行く」と言うそうです。
魚との勝負に勝った証が魚拓であり、
敵将の首と同様の意味が魚拓にはありました。
そんな武士の釣りですので事故を起こせば大変!
減俸や家名断絶もありえたという。
とはいえ釣りは面白いので、
武芸の鍛錬の名目で趣味に走る者もあります。
武士たるもの戦に備えなければならないので、
夜釣りに行くには藩への届出が必要。
これがなかなか許可が下りませんので、
こっそり行く者も多かったという。
幕末にも釣りバカ、釣りキチは居たんですね。
庄内藩士氏家直綱は戊辰戦争時の軍事周旋方で、
北越に出陣していますが退路を断たれ、
会津から山形を経て仙台に向かい、
榎本艦隊と合流しようとしますが失敗し、
そのまま仙台に隠れ住んで、
維新後に庄内に帰郷しました。
氏家直綱。
明治8年に酒田県に出仕し、
明治9年に山形県庄内支庁詰となります。
明治11年には初代西田川郡長となり、
明治15年より各地の郡長を歴任しています。
相当の釣り好きで鯛鱸摺形巻という巻物には、
自らの獲物の33匹の魚が魚拓されてます。
文久2年より江戸詰となった氏家は、
非番の日には江戸湾で糸を垂らしました。
江戸っ子には釣りはヒマ人の遊びでしたが、
庄内藩から来た優秀な若侍が、
真剣に「勝負!勝負!」と言って糸を垂れ、
大物を狙って魚と駆け引きする様子は、
江戸っ子達にはどう見えたのでしょうか?
仙台藩邸近くの河岸で釣った剛鯛の魚拓。
その後、国元に戻っても釣りは続けられ、
巻物には慶応3年までの魚拓があるという。
ちなみに江戸時代の現存する魚拓は、
日本中探しても庄内にしか無いようです。
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