らしゃめん伝吉②

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出奔した伝吉の足取りは不明です。

1854年7月(嘉永7年6月)。
香港に現れて停泊中のミシシッピ号に、
合衆国を訪問したいと願い出たという。
伝吉は乗船を許されてアメリカへ向かい、
水夫達は親しみを込めて伝助を、
ダンケッチ(Dan-Ketch)と呼びました。

アメリカに渡った後の足取りも不明で、
安政6年に英国軍艦サンプソン号に乗って、
英国付通訳としてオールコックと共に帰国。
アメリカに行ったはずですが、
不可解にも英国に雇われており、
この辺りもよくわかっていません。
とにかく通訳になって帰国しました。

何らかで再び清国に戻った伝吉は、
広東の英国領事館で雇われ、
※オールコックが領事を務めていた。
語学力を買われて通訳となったのでしょう。

伝吉は英国籍を与えられていたようで、
※帰化名ボーイ・ディアス。
帰国後は自ら英国人と称して洋装し、
外出の際は馬を用いました。
外国人のような振る舞いをする伝吉は、
江戸中で有名にはなりますが、
その傲慢な態度で嫌われています。

また通訳の仕事とは別に、
公使館員達に日本人女性を斡旋。
口入屋(手配屋)と組んで一儲けを企み、
素人娘で異人館に奉公にあがる娘を探し、
蕎麦屋の娘お花と寺娘のお香乃が選ばれ、
公使館内で働かされます。
※待遇は月40両、契約前に3カ月分前払。
蕎麦屋や寺院には借金があったようで、
仕方なく奉公に出したようです。

外国人の様に振る舞い、
市中を馬で闊歩して度々問題をおこし、
あげく外国人に日本の娘を斡旋するなど、
色々と恨みを買っていた伝吉。
誰に殺されてもおかしくない状況でした。

安政7年1月7日。
伝吉は公使館の前で立っていると、
2名の深編笠をかぶった男が近づいてきて、
その背中に短刀を突き刺しました。
伝吉は短刀が刺さったまま公使館まで戻り、
そのまま絶命。犯人はわからぬままでした。

伝吉の死後に第一次東禅寺事件が発生。
水戸浪士14名が公使館を襲撃した事件で、
警備兵2名と襲撃した浪士3名が死亡。
外国人も2名が負傷しますが、
公使オールコックは難を逃れました。

水戸浪士が去った後、東禅寺の部屋で、
2人の娘の斬死体が見つかります。
お花とお香乃だという。

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東京都港区 光林寺/ヒュースケン墓所他
 伝吉の墓があります。
静岡県下田市 玉泉寺/日本初の米国領事館
 米国領事館にも女性が奉公に出ています。
オランダ船長殺害事件
 2人を殺害した下手人は不明。

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