赤坂に奇兵隊士の墓があります。
手向山の西側。赤坂2丁目の小高い山。
地図ではなんてことないんですが、
急な坂と細い道が多い場所でした。
そのわりに建ってる家は豪邸が多かったです。
急な坂をどんどん車で登って、行き止まりまで行くと、
車を止められるスペースがあります。
そこから階段を登ってすぐのところにありました。
「長州奇兵隊戦死墓」ほか。
右から「長州 梅津熊之進 春日典七 楠式部 藤野波太郎
徳美典五郎 山城平吉 矢玉助太郎 山本宗之進」墓。
「山田鵬輔墓」。
「長州奇兵隊戦死墓」。
「長州? 柏村○之丞 柏村作右ェ門 西安太郎 池田造酒
徳田巌叔? 徳田徳三郎 山田辰次? 戦死墓」。
四基並んで建っています。
小倉戦争最大の激戦と呼ばれる赤坂の戦いは、
小倉藩以外の征長軍で唯一ちゃんと戦った熊本藩軍が参戦。
熊本藩軍は野戦砲を用いた砲撃戦を展開し、
長州藩兵は多くの死傷者を出しました。
奇兵隊の山田鵬輔隊は、熊本藩砲台を落とそうと突撃しますが、
銃弾に当たって山田は戦死。隊は壊滅します。
銃撃で戦死者の遺体も収容できず、
首のみを隊士阿部宗兵衛が持ち帰りました。
勇猛に戦った山田隊の遺体は火葬され放置されましたが、
熊本藩軍の参謀として参戦していた横井小楠は、
遺骨を集めさせて「防長戦死之塚」の木柱を建てて葬りました。
その後の明治元年、木戸考允は長州の僧田中芝玉に、
遺骨を下関に改葬するよう頼みますが、
横井小楠は「墓を移すのは肥後藩の気持ちを、
無視することになる」と木戸に抗議。
この横井の抗議に改葬を諦めた木戸は、
田中芝玉に小倉で墓を守るよう頼み、
芝玉は対岸が見える丘に墓を移して墓守となりました。
■関連記事■
・福岡県北九州市 延命寺(奇兵隊戦死墓)
境内に破壊された奇兵隊戦死墓があります。
・福岡県北九州市 慶応丙寅激戦の址
赤坂の戦いは小倉戦争最大の激戦でした。
・福岡県北九州市 志津摩橋と中野橋
大里の戦いが行われた場所に掛かる橋。
>匿名様
コメントありがとうございます。
地元のこういうところって、中々知る機会が無いですよね。
北九州市は小倉戦争の舞台ですので、
意外と知られていない史跡などが多くあります。
是非とも行かれてみてください。
地元の人間ですが、こんなところがあるなんて全然知りませんでした。