宮本武蔵の顕彰碑のある手向山の東側は、
小倉戦争の激戦地だった場所。
今は閑静な住宅街になっておりますが、
そこを流れる小さな村中川に掛かる橋を見に行きました。
「志津摩橋」。
車で通ると気が付かずに通り過ぎてしまうような橋。
橋名は島村志津摩隊が布陣していたことに由来します。
島村志津摩は、金辺峠(記事はこちら)に陣を敷いて、
圧倒的な長州軍に抵抗したことで知られます。
島村隊は、はじめ大里の戦いに参加していませんでしたが、
前線の応援要請に応えて小倉より出陣しています。
気が付きにくいですが、しっかりと「志津摩橋」と記されています。
さて、この志津摩橋よりももっと気が付きにくい場所に、
もうひとつ小倉戦争由来の橋があります。
「中野橋」。
志津摩橋は島村志津摩に由来する事は想像しやすいですが、
この中野橋はよくある名前ですので、特別な橋と想像しづらい。
この橋は小倉藩中老で四番手大将中野一学に由来し、
大里の戦いの終盤にこの場所に布陣しました。
こちらは石作りですね。
赤丸の場所が橋の位置。
大里の戦いで、小倉藩軍は果敢に応戦しましたが、
散兵戦術を用いた長州軍に大苦戦。
赤坂まで引いて軍を立て直し、大里まで押し出しますが、
すでに長州軍は一人残らず下関に引き上げた後でした。
■関連記事■
・福岡県北九州市 慶応丙寅激戦の址
大里の戦いの後、赤坂で両軍は激戦を繰り広げました。
・福岡県田川郡 金辺峠
小倉勢はここを最後の砦として、長州勢に反抗します。
・「小倉藩家老 島村志津摩」白石壽
島村志津摩の生涯。