維新を生き抜いた志士達は政府に出仕し、
殆どが東京に在住していた為、
その墓所は東京という例が多い。
長州藩出身者は地元に墓が無い場合が多く、
木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋、山田顕義、
野村靖、品川弥二郎、桂太郎、山尾庸三、
などなど・・
地元に墓がない人物を挙げればキリがない。
親類ごと東京に移住したというのが、
その主な理由なのでしょうが、
現在も中央に出た元山口県民は、
地元を顧みないという傾向があります。
それに引き替え大村益次郎や、
広沢真臣は地元に墓がありますので、
こういうのはとても好感が持てます。
今回訪れたのはそんな数少ないひとり、
洞春寺にある井上馨の分霊墓。
明治期は汚職事件等に関わった井上ですが、
地元に墓があるだけで好感度UPですね。
「洞春寺山門」。
1400年代の山門とされ、
大内氏が建てた国清寺よりの移築という。
「洞春寺観音堂」。
こちらも1400年代のもの。
大内持盛の菩提寺であった観音寺の御堂で、
毛利家支配期には大通院と称していました。
明治期に朽廃が著しかったため、
ここに補修、改築されたものです。
「洞春寺本堂」。
井上聞多率いる鴻城隊は、
ここを本陣としており、
※当時は寺名は常栄寺。
分霊墓があるのはそういう縁から。
井上は春山花輔のいう変名で、
鴻城隊総督となっています。
「井上家墓所」。
本堂の裏手にある井上家墓所。
馨の他に妻井上武子、
養嫡子の井上勝之助の墓もあります。
「従一位大勲位侯爵井上馨分霊塔」。
井上馨の分霊墓。
井上聞多は後に馨と改名。
明治政府では主に財政に力を注ぎます。
西郷隆盛に三井の番頭と揶揄されますが、
大隈重信は井上を次のように評しています。
「一旦紛糾に処すると
たちまち電光石火の働きを示し、
機に臨み変に応じて縦横の手腕を振るい
難問題も纏まりがつく。
氏は臨機応変の才に勇気が備わっている」
「侯爵夫人井上武子分霊塔」。
井上馨の後妻井上竹子の墓。
幕臣岩松俊純の娘に生まれ、
大隈重信の仲介で井上馨と結婚。
明治9年の井上の渡米に同行し、
欧米を歴訪した際に西洋式社交術を修得。
井上の推進する鹿鳴館の開館後は、
妻として夜会を取り仕切り、
他の高官の妻に社交術を指導しました。
井上没後の大正9年に死去。
俗説で旧薩摩藩士中井弘の妻だったとされ、
中井が帰郷する際に大隈重信に預けられ、
井上は大隈邸を訪れた際に惚れ込んで、
竹子を寝取ってしまいます。
帰ってきた中井は妻が寝取られた事を知り、
井上に誓約書を書かせて身を引いたという。
この話は昭和以降の創作のようですが、
最近まで信じられていました。
「正二位勲一等侯爵井上勝之助分霊塔
侯爵夫人井上末子分霊塔」。
井上勝之助は馨の兄井上光遠の子で、
嫡子のいなかった馨の養子となりました。
成人後は外務省に出仕して、
ドイツやイギリスの大使になっています。
大河ドラマの主役にふさわしい長州人は、
実は井上馨なんじゃないかと思う。
幕末期には攘夷活動や外国留学、
暗殺者に殺されかけたり、
薩長同盟に大きく関わったり・・。
明治期には略奪愛のロマンス、
汚職や財政手腕の発揮、
大命降下の拝辞など。
面白いエピソードが盛りだくさん。
好き嫌いの分かれる人物ですが・・。
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盟友伊藤博文の墓所。