立花内膳家は柳河藩家中最高位の家格で、
立花帯刀家と共に御両家と呼ばれました。
三池藩藩祖立花直次の三男立花政俊は、
島原の乱で甥の立花種長に代わり、
三池藩兵95名を率いて奮戦。
この功で2000石を与えられますが、
その半分の1000石のみ受け取って、
立花内膳家を創設しています。
以後は帯刀家と共に御両家として続き、
帯刀家が[文の家]と称されるのに対し、
内膳家は[武の家]とされました。
「立花内膳家墓所」。
内膳家の墓所は法輪寺でしたが、
既に廃寺となっており、
遺骨も椛地区納骨堂に改葬。
つまり現在は改葬後の空墓なのですが、
ゆかりの人々によって整備され、
末永く保存されているとのこと。
内膳家初代立花政俊の墓は台照院。
ここには2~10代の当主の墓があります。
「法輪寺殿嗣法雪關元徹大居士之墖」。
2代当主立花種俊の墓。
初代政俊の跡を継いだ種俊は、
武芸に長じ馬術の達人であったという。
また信仰心の篤い人物でもあり、
黄檗十哲のひとり鉄文禅師を迎え、
この法輪寺を創建して菩提寺としました。
「法性院殿義關淨透大居士之塔」。
3代当主立花種信の墓。
種信は元和3(1617)に生まれ、
正徳3(1713)に死去した事しかわかりません。
非常に長寿なのですが資料がありません。
「正法院殿真空洞徹大居士霊塔」。
4代当主立花種命の墓。
種命の治世では天災が多くあり、
洪水、旱魃で作物が大打撃を受けており、
これにたまりかねた農民が逃亡。
しかし途中で呼び戻されて、
主謀者12名が磔刑に処せられています。
「徹真院殿雪山種房大居士霊塔」。
5代当主立花種房の墓。
弓術の達人だったとされますが、
それ以外の事は不明です。
「良機院殿功巖壽賰大居士霊塔」。
6代当主立花壽賰の墓。
歴代当主同様に武芸に秀でていたようで、
家川念流剣術皆伝、宝蔵院流槍術目録、
馬術は笠間司馬に学び、砲術は赤松流、
越後流兵学にも精通していたという。
寛政4年(1792)に家臣から数10名を選び、
火器を持たせて[山筒組]を結成させ、
平時は狩猟に励む傍らで、
筑肥の国境警備に当たらせています。
また民政にも力を注いでおり、
赤痢の流行では大釜で薬を煎じさせ、
神仏にも流行の収束を祈願。
享和3年(1803)には吉ヶ谷に溜池を築き、
更に文化2年(1805)にも溜池を完成させ、
治水事業にも力を入れました。
「天祐院殿廣智総仁大居士」。
7代当主立花種董の墓。
歴代同様に武芸に通じており、
砲術では百発百中の腕前でした。
更に日置流弓術免許、宝蔵院流指南免許、
馬術秘法相伝、家川念流極意を取得。
治世についてはわかりません。
「靖恭院殿唯徳日馨大居士」。
8代当主立花種珍の墓。
子弟教育に力を注いだようですが、
28歳の若さで病死しています。
「鷲嶺院殿覺性圓明大居士」。
9代当主立花種生の墓。
軍制改革を行い撃剣と銃砲の訓練を強化。
自身も泰西兵法と砲術を学び、
臣下や領民にもその術を指導したという。
慶応2年、死去。
「大心院殿慈徳弘樹大居士」。
10代当主立花弘樹の墓。
八条流馬術目録、日置流弓術免許取得。
維新後も当地に居住しており、
明治22年に上内村初代村長に就任。
大正11年に死去しました。
流石は[武の家]といった経歴。
この墓所は上記したように空墓ですが、
大切に保存されているのは素晴らしい。
竹林なので整備も大変でしょうが、
大切にして欲しいですね。
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