青森県むつ市 斗南藩史跡③

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斗南藩史跡地」というよくわからない史跡があります。

むつ市街から県道6号線を東へ向かいます。

斗南藩史跡地」。
意味の分からない名称が付けられいますが、
斗南ヶ丘市街地跡」との事。
斗南藩は開拓の拠点としてここを整備し、
斗南ヶ丘と名付けた場所で、
一戸建約30棟、二戸建約80棟を建築し、
市街地をつくりました。
なんで「斗南藩史跡地」なんて変な名称にしたんだろう?

旧斗南藩屋敷土塀跡」。
どこに土塀があるのかわかりませんが、
ここに土塀があったのでしょう。
屋敷は一棟100坪位だったらしく、
意外と規模の大きな町だったのでしょうね。
一番町から六番町まであったようです。


父宮両殿下御成記念碑」。
松平容保の孫松平節子は、
学習院で伯爵樺山愛輔の次女正子と友となり、
その関係から両家が交友するようになります。
樺山は節子皇后の内意を受け、雍仁親王の伴侶を探しており、
次女の友である節子に白羽の矢を立てました。
朝敵であった松平容保の孫娘の皇室入輿は、
旧会津士族の汚名を雪ぐ絶好の機会と、
節子は婚姻を承諾して勢津子と改め、
※皇后と同名であった為。
雍仁親王と結婚し秩父宮勢津子となります。
この碑は秩父宮雍仁親王と勢津子が、
下北を巡遊した事を記念して建てられたもの。
旧藩士にとって勢津子は希望そのものであったのでしょう。

そこからさらに県道6号線を東へ向かうと、
斗南藩士の墓所があります。

旧斗南藩墳墓の地」。
小高い丘を登ると墓石か並んでおり、
説明版が建てられています。
・・・が、新しい墓石ばかりで、当時の墓石が少ない。
そのほとんどが「先祖代々之墓」となっていますので、
子孫により建て替えられているようですね。


斗南藩追悼之碑」。
並ぶ墓石の一番端に建てられています。


竹村俊秀祖母之墓(左)」。
新しい墓石が並ぶ中、小さいながらも目立つ古い墓石。
祖母之墓となっていますが、こういう墓石は珍しいですね。
要は竹村俊秀のお婆ちゃんの墓ということなんでしょうが、
本人の名前はわからなかったんでしょうか?

竹村俊秀は元会津藩士で、藩校日新館の俊才と称され、
会津戦争では狙撃隊の隊長として奮戦しています。
斗南に移住して開墾に従事しますが、
廃藩置県によって斗南藩は消滅。
そのまま残って青森県開墾掛頭取となりますが、
県官僚と対立して辞任しています。
政府への不満から、旧斗南藩士永岡久茂らと交友し、
同じく政府に不満を持っていた前原一誠とも知り合い、
明治9年に前原が起こした萩の乱に呼応して、
千葉県庁を襲撃しようとしますが、
計画は事前に発覚。捕えられ斬首されました(思案橋事件)。

他にも数基の古い墓石があります。

嶋影弥五七・サヨの墓」。
斗南藩士嶋影弥五七とその妻の墓。
嶋影家の直系はこの地で続いているようで、
隣には立派な墓が建てられています。


こちらも古い墓石ですが、戒名なので誰の墓かわからない。


小さな自然石の墓は、誰かが参っているようです。
車のおもちゃまで供えられていたのですが、
子供の墓なのでしょうか?

立派な看板が建てられているのは、
大河ドラマ「八重の桜」の影響でしょうか?
ただもう少し説明板の文章を工夫してほしい。
史跡にはどれも説明板が設置されていましたが、
どれも悲惨さを語るばかりで肝心な事が書いていない。
はっきりいって稚拙な文書です(←お前が言うな)。
こういうのはしかるべき人が吟味して書くべきで、
当時の顕彰碑だってそうだった訳です。
ちょこちょこっと市の職員が文書を書いたって、
その職員が歴史を理解していないと、
読む者に伝わらないんですから。
まぁ、そういう説明板がどこ行っても多いんですけどね・・。

【斗南藩】
藩庁:旧五戸代官所、円通寺(仮藩庁)
藩主家:会津松平家
分類:3万石、旧親藩大名

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