大分県宇佐市 佐田秀の歌碑と墓所

代官所を襲って討幕の挙兵をしながらも、
味方に討たれた悲劇の志士佐田秀(ひずる)。
その佐田秀の歌碑と墓所が、
宇佐市安心院町内川野及び古川にあります。


安心院町県道716号線周辺
(a佐田秀歌碑,b佐田秀墓所)

まずは歌碑から。

佐田秀歌碑」。
佐田秀は、志士でありながら歌人としても優れ、
自然を詠んだ歌を数多く残しています。
1000首暗記すれば一流歌人とされていましたが、
4000余首の万葉集の全歌を暗誦していたという。
歌碑には、
荒ハてし 秋の故郷来て三れは
あさちか原に 月ひとりすむ

と刻まれており、
激烈な志士とは思えない情緒が感じられます。

歌碑のある場所から716号線を東に向かうと、
右手に白い案内柱が現れます。

道路脇に車を駐車できるスペースがありますので、
ここから歩いて脇道を下ります。


田んぼを通って山道を進むと、
山の斜面に沢山の墓が現れました。
佐田秀の墓は一番高い位置にあります。


佐田秀墓」。
佐田秀は佐田村の庄屋佐田友貞の長男として生まれ、
和歌を物集高世に、皇典を近藤弘之に学びました。
庄屋家の家督を弟に譲って尊皇攘夷運動に奔走。
豊後の志士青木猛比古らと楠公会を結成するなど、
精力的に活動しています。

天誅組の変に呼応して日田代官所襲撃を計画しますが、
事前に計画が漏れて失敗。
下関に逃れて長府報国隊に入隊しました。
小倉戦争に従軍していますが、脱隊して宇佐に戻り、
慶応4年に公卿花山院家理を迎えて挙兵を計画。
同志らが京都で花山院を説得して西下しますが、
この行動は長州藩の知るところとなり、
花山院は長州に留められ合流することが出来ず、
仕方なくそのまま花山院隊と名乗って挙兵
四日市代官所を襲って大砲や弾薬などを奪い火を放ち、
続いて東本願寺別院にも火を放ち、
御許山に錦の御旗を掲げて立てこもります。

この事件の鎮圧に乗り出したのは、
かつて佐田の所属していた長府報国隊。
報国隊士が豊前に出張して花山院隊と交渉。
花山院隊の挙兵が勅許を得てない事
勝手に長州藩の名を用いた事
脱隊違反の罪を犯した事」を挙げ、
交渉の席上で秀を斬殺。
佐田の首は盗賊の類として晒されました。


桑原範蔵 平野四郎 柴田真次郎 墓」。
佐田秀墓の隣に花山院隊の幹部の墓があります。

この事件は「御許山騒動」と呼ばれますが、
大政奉還を経て王政復古が成立しており、
既に倒幕への道を進んでいた長州藩としては、
ただの迷惑な別派行動でしがなく、
単なる暴挙として処理されました。

たしかに倒幕に移行していた長州を抜け出し、
別の場所で倒幕の挙兵をするという行動は、
迷惑でしかなかったのかもしれません。

■関連記事■
大分県宇佐市 四日市陣屋跡
 花山院隊は四日市陣屋を襲い、討幕の狼煙を上げました。
下関市長府 豊功神社
 花山院隊を鎮圧した長府報国隊の顕彰碑があります。
大分県宇佐市 佐田賀来家関連史跡
 佐田村の大庄屋賀来家の関連史跡。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。