東行庵の山縣有朋像

東行庵には山縣有朋の銅像があります。
平成27年4月14日の東行忌に除幕されており、
若き日の名である山縣狂介像と題されました。


山縣狂介(有朋)像」。
東行庵の前身は山縣の草庵[無鄰菴]で、
その草庵を梅処尼(うの)に贈ったもの。
無鄰菴の名は隣家が無いからとのこと。
山縣はこの名を気に入っていたようで、
京都の別邸も無鄰菴としており、
※現在の高瀬川二条苑
その後の南禅寺参道前の別邸も、
これまた無鄰菴としています。

戊辰戦争より凱旋した山縣は、
梅処尼に所有する吉田の土地を贈り、
宅地214坪(無鄰菴)、田地6畝17歩(197坪)
畑地8畝20歩(260坪)、山林1反9畝18歩(588坪)

後の明治8年と明治17年に、
梅処尼の生活費工面を有志に呼びかけ、
8年に750円、17年に1550円を集めてました。
寄付の内訳は毛利元昭の55円が最高額ですが、
次に多い50円を山縣が出しています。

そんなわけで東行庵への貢献度が高い山縣。
普通なら賞賛されるべきですが、
己の地位の為に晋作を神格化させたとか、
色々と中傷されていたりもします。
明治以降の嫌われ方が祟ったんでしょう。
ですがその考えは少し浅はか
それならば中央で顕彰すべきであって、
このような吉田の片田舎では、
なんらその効果が無いと思います。
こういうのは純粋に縁者の誠意であり、
国庫から金が出した訳でもない。
元主が、元同僚が、元部下が、
故人の晋作の為に金を集めたもので、
それ以上でも、それ以下でも無い。
そのようなナナメ目線で見るような人間は、
自らが世話になった人に対しても、
恩返ししようなどという心が無いのでしょう。
そんな人間の話など、信用に値しません。

ちなみに山縣が妻の友子との結婚を、
承知しないその父黒井村の庄屋石川良平に、
晋作が将来は立派な人物になるからと説得。
石川は高杉先生がそう言うならと、
結婚を許してもらった逸話があります。
晋作は山縣のキューピットだった訳ですね。
※祝言の際に晋作は危篤となっています。
(記事はこちら
山縣は奇兵隊の出世頭三代内閣総理大臣
彼自信も吉田地区所縁の英雄であり、
吉田と東行庵の発展に貢献した人物で、
その山縣の功績を称えられて、
吉田在住の先人達が銅像を建立しました。


山縣有朋公銅像」。
昭和8年建立。
軍服に軍刀を杖替わりとした直立像ですが、
足下の台座は高杉晋作陶像の台座です。


高杉東行先生像」。
ほらまったく一緒。
山縣像は昭和18年の金属供出で失われ、
この台座だけが残りました。
※同じく日和山の晋作像も失われています。
戦後に日和山に晋作像が再建される際、
戦争でも失われないようにと、
陶器での製作が決定。
数種の試作原型が造られたようで、
その中の1体がこの台座に置かれました。

そして時は流れ、
平成26年に新しい晋作の銅像が建立され、
それに続いて翌年にこの山縣像が、
再び建立されたという訳です。

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