青森県五所川原市 吉田松蔭関連の石碑

吉田松陰宮部鼎蔵江帾五郎と東北へ遊学。
水戸白河と歩いて途中で江帾と別れ、
会津新潟佐渡秋田弘前と巡り、
五所川原から津軽半島を北に向かっています。

五所川原市に点在する松陰関連の石碑を、
今回は探してみました。

岩木川に沿って北へ進んだ松陰と宮部。
その足取をたどると松陰の碑が4つあります。


吉田松陰先生渡舟記念碑」。
松陰と宮部は赤堀の渡船場で船に乗り、
岩木川の対岸にある芦屋に渡りました。
本来は対岸に渡る必要は無かったのですが、
地元民に道を聞いた際に、
津軽弁が聞き取れなかったのか?
若しくは松陰が聞き間違えたのか?
道を間違ってしまったようです。


十三館岡街道吉田松陰ゆかり之地
 神原之渡し」。
2人は仕方なく対岸を約10km北上し、
繁田という場所から神原へ渡りました。
1本の石碑に「ゆかり之地」と、
「神原之渡し」が刻まれています。


かなぎ元気村 茶房 鄙家」。
弘前藩士であった傍島家の旧宅で、
近所の弘前藩士津島家津島修治(太宰治)も、
よく遊びにきていたとの事。
訪問時は冬季休村中となっていました。

敷地内に松陰の碑があります。

吉田松陰 宮部鼎蔵 巡見之碑」。
岩木川を渡った松陰と宮部は、
蒔田の豪農紺屋田中長十郎家で昼食。
吉田松陰先生昼食の場所という木製の碑が、
近くに建てられていたようですが、
現在は朽ちて撤去されたとのこと。
代わりに傍島家旧宅にこの碑を設置。
但し傍島家に2人は来ていないようです。

北上して十三湖へ。

吉田松陰遊賞之碑」。
昼食を取った松陰と宮部は岩木川を北上し、
十三湖のほとりまでたどり着きました。
波穏やかな十三湖と遥に霞む岩木山の絶景を、
真に好風景なり」と日記に記しています。

これにて周辺の松陰関連の碑は終り。
吉田松陰遊賞之碑のすぐ近くに、
今泉賽の河原地蔵尊がありました。

今泉賽の河原地蔵尊」。
青森では地蔵信仰が盛んだったようです。
賽の河原とは三途の川の河原の事で、
親に先だって死んだ子供は、
親不孝の罪の報いを受けるという。
小石を積んで両親の供養塔を作るのですが、
何度作っても絶えず鬼に崩されてしまう。
これを地蔵菩薩が救うとされています。


坂を上ると広場のようになっており、
着物を着たお地蔵さんが並んでいました。
東北は寒いので子供の死亡率は高かったのか?
死んだ子供を救って欲しいという親心が、
地蔵信仰の源になっているのかもしれません。

松陰と宮部は十三湖の湖畔を更に北上。
海岸線に出て小泊へ向かっています。

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