弘前藩の藩庁である弘前城は、
江戸期の天守が現存する貴重な城。
天守以外にも櫓や門が数多く現存しており、
当時のままの姿を保っています。
また桜の名所としても知られ、
散った桜の花びらが堀を埋め、
堀が桜色に染まる幻想的な景色となります。
「三の丸 追手門」。
簡素な素木造りの二層櫓門で、
現存する藩政時代の正門。
門だけでなく連結する壁や、
土塀もよく整備されており、
当時の雰囲気を感じられます。
築城当時は正門の追手門ではなく、
裏門の搦手門だった様で、
碇ヶ関街道(羽州街道)の整備によって、
参勤交代がここから出発するようになり、
この門が正門になったらしい。
「前田光世君之碑」。
柔道家前田光世の碑。
米国で異種格闘技戦を繰り広げ、
1000戦無敗の戦績を誇りました。
後にブラジルに渡って柔術を広め、
グレイシー家にも柔術を教えています。
コンデ・コマの通称有名。
「辰巳櫓」。
二の丸南東の端にそびえる三層櫓。
三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列を、
歴代藩主はこの櫓から観覧しました。
もちろん現存です。
「菊池先生碑」。
弘前藩士菊池九郎の顕彰碑。
藩校稽古館に学び書院番や藩主小姓を務め、
幕末期には諸藩間の周旋に奔走。
廃藩置県で藩校が消滅してしまった為に、
有志と私立学校東奥義塾を創設しました。
郡長、県会議員を経て、
初代弘前市長に就任し
衆議院議員、山形県知事を務めた後、
再び懇請されて弘前市長となっています。
「未申櫓」。
二の丸南西端にある現存櫓のひとつ。
本丸から見て未申方角(南西)にあったので、
未申櫓という名前で呼ばれました。
「杉の大橋」。
三の丸から二の丸に続く大橋。
築城当時は杉の木材で造られていたようで、
敵の侵入を防ぐ為に壊しやすいように、
柔らかくて燃え易い杉が使われたとのこと。
「南内門」。
杉の大橋を渡ると現れる櫓門。
二の丸正門だったようです。
「下乗橋」。
本丸への架け橋。
ここから先の下馬が定められていた為、
下乗橋とよばれていたようです。
赤い橋と天守の眺めが有名なのですが、
あれれ?天守がなんだか遠いぞ・・・。
本丸は有料だという情報でしたが、
現在は無料で入れるようです。
それより気になるのが天守の位置・・。
本丸内に設置された工事説明板を読むと、
なんと天守を曳屋工事で動かしたらしい。
石垣に[はらみ]と呼ばれる現象が発生し、
大地震が起きた場合、
崩壊の恐れがあるとの事。
それで貴重な現存天守を守るために、
天守を丸ごと移動した様です。
そんなこと出来るんですね。
「天守」。
本丸中央に移動した弘前城天守。
全国で12しかない現存天守で、
その最北及び最東に位置します。
天守台の無い天守は間抜けな感じですが、
岩木山を背景に写真が撮れるのは今だけ。
本丸から岩木山を望む。
別名津軽富士とも呼ばれるようですが、
雪化粧した姿は富士山を彷彿とさせます。
「鷹丘橋」。
本丸を下り鷹丘橋を通って北の郭へ。
鷹丘橋の名の由来は、
弘前城の前身である鷹丘城から。
「武徳殿休憩所」。
柔剣道練習場として建てられたもので、
明治時代末期の建築。
平成15年に改修されて、
土産物店や喫茶店、休憩所になっています。
「丑寅櫓」。
二の丸北東端にある現存櫓のひとつ。
本丸から丑寅の方角(北東)にあったので、
丑寅櫓という名前で呼ばれました。
城の北側の四の丸へ。
「青森縣護國神社」。
箱館戦争の戦没者慰霊の為、
弘前藩によって創建された弘前招魂社。
後に青森縣護國神社となっています。
「青森縣護國神社 拝殿」。
この神社は最後の藩主津軽承昭によって、
弘前城四の丸内に創建されたもので、
青森県の指定護国神社です。
基本的には指定護国神社は一県にひとつで、
※北海道は除く。
県庁所在地にない希なケース。
「一戸兵衛君碑」。
弘前出身の陸軍大将一戸兵衛の顕彰碑。
西南戦争に出陣して負傷しましたが、
その後頭角を現して次々に昇進し、
日露戦争時には少将となっていました。
旅順攻囲戦の第一次総攻撃では、
日本軍で唯一目標の保塁を占領。
第二次総攻撃でも保塁の占領に成功し、
奉天会戦後には第三軍参謀長になりました。
戦後も旅団長、師団長を歴任し大将に昇進。
軍事参議官、教育総監も務めています。
「工藤行幹君碑(右)」、
「蒲田広君碑(左)」。
元弘前藩士工藤行幹と、
弘前出身の教育家・政治家蒲田広の顕彰碑。
工藤は奥羽越列藩同盟との交渉を担当し、
弘前藩が同盟から脱退すると、
捕まって禁錮処分となっていますが、
すぐに赦免されて盛岡藩と戦っています。
後に明治政府に出仕して、
土木関連の行政で経験を積んだ後、
三重県に転任して県内の土木と警察を担当。
郷里に帰って郡長や学校長を歴任した後、
自由民権運動に参加しています。
第1回衆議院議員総選挙で当選して以降、
9回連続当選を果しました。
蒲田は菊池九郎の東奥義塾で教師を務め
弘前市議や県議として活躍。
菊池の委託で東奥日報社の社長に就任し、
自由民権運動にも参加していますが、
代議士となる事を期待されながら、
志半ばで病死しています。
「日露戦争戦没者慰霊碑」。
日露戦争で戦死した弘前出身者の慰霊碑。
「弔戦歿諸霊碑」。
野辺地戦争や箱館戦争等の戦死者の慰霊碑。
青森県最古の戦没慰霊碑とのこと。
「西舘孤清翁碑」。
弘前藩京都用人であった西舘孤清の顕彰碑。
ちょっとわかりにくい場所にあります。
京都に在駐して中央の時勢に明るく、
新政府軍の優勢を本国に伝える為に、
大金をはたいて苦労して海路で弘前に戻り、
藩論を新政府恭順に統一させました。
四の丸を出て、東側より一旦城域から抜け、
外堀を歩いて東門へ。
「東門」。
三の丸東側の櫓門。
他の現存櫓門と同様の櫓門ですが、
この門だけ何故か重文指定が遅れたとの事。
何故遅れたのかは不明のようです。
当時の官僚のミスかも??
「藩祖津軽為信公」像。
弘前市民文化センター前の津軽為信の銅像。
為信は盛岡南部家に従属する立場でしたが、
南部宗家の後継者争いで、
石川信直と九戸実親が対立。
味方した実親が敗れて信直が当主となると、
反勢力と見なされて討伐対象となりますが、
情勢が味方して南部家は攻撃力を拡大。
豊臣秀吉に取り入り地位の確立に成功し、
南部家からの独立を成功させました。
弘前藩は江戸時代後期に入ると、
飢饉等の天災で領地は荒廃。
財政は破綻寸前まで追い込まれましたが、
8代藩主津軽信明の藩政改革が成功。
財政は好転するに至りました。
しかし信明は激務が祟って急死してしまい、
跡を継いだ9代津軽寧親は、
信明の藩政改革を受け継いでいますが、
改革よりも家格を上げる事に専念し、
蝦夷地警備の功績で所領の高直しが行われ、
政略結婚政策も行っています。
家格は南部家より上となりますが、
負担だけが増える結果となり、
盛岡藩にも遺恨を抱かせる形にもなって、
相馬大作事件の原因にもなっています。
寧親の隠居後に、
次男津軽信順が10代藩主に就任。
花火見物、ねぶた見物、月見見物で散財し、
それを咎めて家老が切腹しても治りません。
最終的に幕府に強制隠居を命じられますが、
70万両の借金が残りました。
11代津軽順承は8代信明の再来と称され、
五ヶ条の倹約令や30ヶ条の経費節減、
新田開発や荒地の復興、
貯蓄制度による凶作対策、
洋式軍備による軍備増強、
大砲鋳造や海防警備の強化、
医学館や蘭学堂の設置、
学問の奨励など、
様々な藩政改革で財政を再建しています。
12代津軽承昭の時代に戊辰戦争が起こり、
弘前藩は奥羽越列藩同盟に参加しますが、
西舘孤清らの活躍により新政府に恭順。
秋田や野辺地に出兵していますが、
惨敗して大きな被害を出してしまいました。
特に盛岡藩領に侵攻した野辺地戦争では、
盛岡・八戸勢の死者が8名だったのに対し、
支藩黒石藩含め50名弱の戦死者を出し、
しかも私闘であると処理されてしまいます。
弘前城といえばお堀を埋め尽くす桜。
訪問時はまだまだつぼみでした。
【弘前藩】
藩庁:弘前城
藩主家:津軽宗家
分類:10万石、外様大名
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