福井市へ。
福井駅西口より南西方向へ歩いて、
柴田公園に行ってみます。
「北の庄城址 柴田公園」。
北ノ庄城跡に整備された公園。
北ノ庄城は柴田勝家の築いた城で、
賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家が、
お市と共に自害した城です。
幕末史とは直接関係ないのですが、
せっかく福井に来たのですから、
寄らない訳にはいきません。
「柴田勝家公像」。
先代から織田家に仕えた武将で、
数々の戦に参戦して戦功を挙げ、
名実共に筆頭家老となった人物。
鬼柴田と恐れられた猛将で、
戦場の突進力は随一と謳われ、
籠城で水を絶たれた際には、
残っていた水の入った瓶を割り、
城外に出て敵を撃破したと伝えられ、
瓶割り柴田の異名で呼ばれたという。
「柴田神社」。
柴田勝家を祀る神社で、
北ノ庄城落城後の本丸跡に、
祠が建てられたのが始まり。
結城秀康が福井城を建設してからも、
城域のこの場所で神祠として保護され、
明治に入ってから松平春嶽や旧藩士、
福井市民等により社殿が建てられました。
平成10年に社殿が建て替えられ、
社域が公園として整備されています。
「北の庄城 お市の方 殉難将士慰霊碑」。
境内にある慰霊碑。
お市と将兵のもので勝家の名が無い。
殉難将士の中に含まれているのかな?
「三姉妹」像。
お市には前夫浅井長政との間に、
娘が3人いました。
この3人は豊臣秀吉、京極高次、
徳川秀忠にそれぞれ嫁ぎ、
運命が分かれることになります。
長女の茶々は後の淀殿で、
秀吉の側室となって寵愛を受け、
豊臣秀頼生母として実権を握り、
大坂夏の陣で秀頼と共に自害しました。
次女の初は京極高次の正室となり、
三姉妹の中で一番長生きしています。
姉と妹の舅(徳川家康)が、
敵味方になって争う中で、
その仲介に奔走し衰退した名家を支え、
大名家への再興に貢献しました。
次女なのに「初」とはこれいかに?
三女の江は佐治一成、豊臣秀勝に嫁いだ後、
家康の嗣子徳川秀忠と再嫁します。
秀忠との仲は良好だったようで、
2男5女をもうけており、
3代将軍徳川家光も江の実子で、
後の将軍は江の血脈となっています。
また、豊臣秀勝との間の娘完子は、
九条家に嫁いでおり、
皇室にも血脈を残しました。
「お市の方像」。
お市は織田信長の実妹で、
浅井家に嫁ぎ織田浅井同盟に貢献。
長政との間に上記の3人の娘をもうけます。
後に浅井家が信長を裏切り、
両家の関係は悪化しますが、
それでも夫婦仲は良かったという。
その後に信長が浅井家を滅ぼし、
長政が父久政と共に自刃した際に、
3人の娘と共に保護されています。
本能寺の変で信長が倒れた後、
柴田勝家と再婚。
翌年に勝家が賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、
本拠の北の庄城で自刃する際、
共に自害しました。
柴田公園を出て城の橋通りを北西に進み、
幸橋から足羽川を渡ります。
「由利公正」像。
幸橋南詰の東側にある由利公正の銅像。
幕末期の名前は三岡八郎と云い、
維新後に由利公正と名乗っています。
横井小楠に師事し橋本左内らと国事に奔走。
財政手腕を買われて抜擢され、
殖産興業政策などで藩財政を再建しました。
春嶽が政事総裁職に就任すると、
その側用人となっていますが、
藩内政争により蟄居謹慎処分となります。
後に坂本龍馬の推薦により、
新政府は由利の出仕を求め、
新政府の金融財政政策を担当。
また由利が作成した議事之体大意は、
五箇条の御誓文の原文となっています。
以後は東京府知事を経て岩倉使節団に随行。
自由民権運動に参加して、
板垣退助らと民撰議院設立を建白しました。
銅像から道の向かいに碑があるのですが、
交差点には横断歩道が無いので、
橋の下の河川敷を通って渡ります。
「坂本龍馬歌碑(左)」、
「由利公正宅址(右)」。
ここにあった由利の屋敷を訪れた龍馬は、
「君がため捨つる命は惜しまねど
心にかかる国の行く末」
と詠んだとされます。
由利の住んでいた毛矢町は、
中下級武士が住む場所で、
彼らは「毛矢侍」と呼ばれていました。
城への出仕は両岸に渡された綱を、
小船に乗って手繰り、
向こう岸に渡っていたという。
橋の建設が彼らから望まれていたようです。
由利が藩に抜擢された後の文久2年に、
毛矢侍悲願の橋が架けられ、
その喜びから幸橋と呼ばれたようです。
由利は幕末期に活躍をしたわけではなく、
優秀な政務官として活躍した人物。
長州藩でいえば広沢真臣の様な官僚です。
国は革命家や軍人だけで成り立ちません。
彼のような優秀な人材が、
必用不可欠だったと思われます。
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