和宮親子内親王

1950年代の国土計画興業によって、
徳川将軍家菩提寺増上寺の墓所が改葬され、
その際に歴代将軍とその正室側室の墓所が、
発掘調査されています。

調査結果をまとめられた、
増上寺徳川将軍家墓とその遺品・遺体では、
和宮親子内親王の血液型はA型又はAB型
身長は推定143.4cm、
体重は推定34kg、
極端な反っ歯と内股が特徴だったそうです。


和宮親子内親王

他の将軍や正室側室の墓には、
副葬品が沢山あったようですが、
和宮親子内親王の墓には副葬品殆どなく、
烏帽子に直垂姿をした若い男性の写真乾板が、
唯一あっただけでした。
しかしこの写真乾板は保存処理が悪く、
翌日にはガラス板になってしまったという。
まあなんともズサンな発掘調査か・・。
発掘当日に数人がこの写真を見ただけで、
その写真が誰なのかは謎とされています。

謎とは言え常識的に考えれば、
夫であった徳川家茂に間違いないでしょう。


徳川家茂

ですが一応は謎なんで、
婚約者だった有栖川宮熾仁親王とも・・
・・それは常識的にないでしょうね。


有栖川宮熾仁親王

将軍家降嫁の話が出た時に、
和宮親子内親王は固辞したようですが、
それは遠く離れた野蛮人(武家)の所へ、
嫁に行くのが嫌だったわけで、
熾仁親王と添い遂げたかった訳ではない。
親王も鳥羽伏見の戦いの後、
東征大総督として江戸に向かいますが、
後の和宮を取り戻そうとしたとか、
会いに行ったとかの話はありません。

許嫁だった王子(親王)と別れさせられ、
遠く江戸の野蛮人の許へ嫁がされますが、
時勢が変わって元許嫁の王子が登場し、
姫を取り返す為に江戸に向かう。
まあ~なんてロマンティック・・。
残念ながらそうではないようで、
家茂と和宮の仲は良好だったようで、
和宮は家茂の存命中もその死後も、
家茂を想う歌を作ってます。

謎の写真は徳川家茂に間違いないでしょう。
墓所は徳川菩提寺で皇族墓所ではありません。
元婚約者の写真を持って、
夫の隣に眠るって相当面の皮が厚いですし、
仮に持って入ると遺言したとしても、
副葬品を入れるのは本人ではないので、
多少の遺言は聞いてくれるでしょうけれど、
これについては徳川家が許さないでしょう。

和宮にはもう一つ謎があります。
遺体の左手首から先が無かったらしい。
これは何らかの事故で左手首を失ったか、
先天的になかったともいわれています。
また和宮は実は暗殺されていて、
暗殺の時に左手をなくしたとか、
左手首だけを分骨したとか、
遺体をすり替えたとか云々・・・。
これについてはよくわかりませんが、
単純に手首だけ土に帰ったのかもしれません。
謎の多いお姫様ですねぇ。

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