弥千代姫のラブストーリー

昔は恋愛結婚なんてないわけですから、
結婚して初めて会うってのが普通でした。
現在の我々からは想像できませんが、
初対面でいきなり夫婦になる訳です。
そんなのが一昔前まで当たり前でした。

上手くいく筈がないじゃん!と思いますが、
それで意外と仲が良かったりする。
会ってすぐに愛し合える訳はありませんが、
それぞれがお互いを伴侶をいう心持ちで接し、
少しずつ愛を育んだのではないでしょうか?

徳川家茂和宮も仲良かったらしいですし、
諸大名も正室と良好な関係だった例も数多い。
土佐新田藩主山内豊福の妻典子が、
夫婦で自刃した際は、
典子の遺書に子供の養育を嘆願している他、
夫と仲むつまじい様子も書かれ涙を誘います。
とはいえ大名の結婚は政略結婚な訳ですから、
くっつけられるのも自由が効かないなら、
引き離されるのも当人らの自由にはならない。

高松藩11代松平頼聰の正室弥千代は、
大老井伊直弼の次女。
先代の10代松平頼胤は井伊と親しく、
条約調印将軍継嗣問題では井伊に味方し、
本家の徳川斉昭とは反対の立場をとります。
井伊は絆をより深くする為に縁談を持ちかけ、
弥千代と頼胤の養嫡子頼聰の婚姻が成立。
譜代筆頭と親藩の婚礼は華やかなもので、
その婚礼道具112棹にも及んだそうです。しかし井伊は桜田門外の変で殺害され、
頼胤も蟄居処分となった為、
図らずも頼聰が11代藩主に就任。
夫婦仲が云々という文献はありませんので、
2人の関係はどうだったかわかりません。
ですが実父が殺されたのですから、
悲しみに暮れていたと思われます。
しかも父を殺した水戸藩は、
高松藩の宗家にあたる関係上、
穏やかではなかったかもしれません。
そんな悲しみもさめやらぬ文久3年、
弥千代は離縁されて彦根に帰されます。
井伊家との縁を切る事を、
示さねばならなかったからでした。

実家に帰った弥千代は、
その後も嫁ぐことは無く維新を迎えます。
彦根藩は譜代筆頭ながら新政府に恭順し、
戊辰の戦功で賞典禄2万石を拝領しました。
一方の高松藩は鳥羽伏見で旧幕軍として戦い、
朝敵となって頼聰は官位を剥奪。
責任者2人の切腹と頼聰の隠居謹慎、
高松城の開城によって許されています。
それからのちの明治5年。
有栖川宮熾仁親王の仲介によって、
頼聰と弥千代の復縁が実現。
熾仁親王の妹宜子井伊直憲の正室で、
直憲は弥千代の実弟でしたし、
熾仁親王の大叔母は徳川斉昭正室吉子で、
井伊家と水戸家の両方に縁があった為に、
この話が持ち上がったとされます。

一度結婚してお互いの事は知った仲ですので、
復縁したのは最低でも嫌では無かった筈。
それぞれ華族でしたから、
他に縁がないわけでもないでしょう。
それでも元の鞘の収まる決心をしたのには、
外部の説得だけではなかったと思われます。
弥千代は復縁の際に於千代と名を改め、
後に千代子と改名しています。

復縁後の於千代子宝に恵まれ、
頼聰の子5男2女を出産。
頼聰が死去するまで仲良く暮らしたとされ、
その縁で香川県高松市滋賀県彦根市は、
姉妹城都市となっています。

因みに頼聰には義礼という次男がおり、
弥千代と離縁した後に誕生していますので、
側室がいたものと思われます。
義礼の母を調べてもよくわかりませんので、
身分の低い者であったと思われますが、
後に尾張徳川家の養子となっていますので、
あながち低い身分とも断定はできません。
この妾の事は離縁後の話ですので、
恋物語に泥を塗る事でもないでしょう。

■関連記事■
長州毛利家と会津松平家は縁者であった
 毛利家から会津松平家に嫁いだ誠姫の話。
和宮親子内親王
 天皇家から将軍家に降嫁した和宮内親王。
岐阜県山県市 高富陣屋跡
 親戚の輿入れで大名になったりする例。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です