西尾市立西尾小学校の南側の住宅地の一角に、
「台嶺殉教之地」という場所があります。
「殉教」と聞いて連想するのはキリシタンですが、
どうもそうではないらしい。
勿論、殉教はキリスト教独自の言葉ではありません。
西尾小学校南側近辺(台嶺殉教之地の場所)
この場所に西尾藩の牢獄があったようです。
ここにある碑は西尾藩のものではなく、
菊間藩で起こった大浜騒動で斬首された石川台嶺の碑。
菊間藩とは、徳川宗家が駿府藩に移ったことにより、
それまで沼津藩水野家の所領5万石のうち、
2万3700石が上知となってしまい、
その代わりに上総国菊間に2万3700石が与えられ、
新たに菊間に藩庁を移して立藩した藩です。
残りの2万6300石は飛地であり、
三河の碧海郡16ヶ村、幡豆郡5ヶ村は大浜領と呼ばれ、
菊間藩は大浜出張所を置いて代官を赴任させていました。
大浜出張所の代官服部純は、明治政府の方針に従って、
村法の改正や勤皇教育、神仏分離等の宗教改革を実施し、
大浜村称名寺の僧侶藤井説冏、
棚尾村光輪寺の僧侶高木賢立を教諭使に任じ、
領民に明治新政の趣旨を平易に教えさせようとします。
両僧侶は領内の村々に新政府の趣旨を伝え、
管内の寺院の代表に出頭を命じました。
その際、政府の意向である檀家の少ない寺院の合併を伝え、
それが可能であるか細かく質問をしています。
この質問に禅宗、浄土宗、時宗の寺院の代表は、
直ちに可否を記して提出しましたが、
経済基盤を檀家に頼る浄土真宗寺院の代表らは、
回答の延期を藩に近い西方寺と光輪寺に依頼しますが、
許されなかった為、2寺は回答を提出しています。
他の真宗の寺院は、可否を回答した2寺に反感を覚え、
また神仏分離の方針が新たな誤解を生み、
藩への不信感が高まりました。
この事態に真宗大谷派の三河護法会は協議を重ね、
宗規を破った2寺を詰問および菊間藩への談判を決定。
蓮泉寺の石川台嶺以下37人の僧侶は、
西方寺と光輪寺の2寺に向かいますが、
これに竹やり持った門徒達が多数同行しました。
この不穏な事態を察知した大浜出張所は、
役人5人を派遣して鷲塚村の庄屋宅で台嶺らと交渉。
台嶺らは寺院統廃合の見直しを要求しますが、
聞き入れられずに話し合いは長引きました。
これに外で待つ門徒らは苛立って暴徒と化し、
庄屋宅に投石を始めた為に、役人達は危険を感じて逃亡。
門徒らはこれを追い懸け、5人のうち1人を殺害します。
急報を受けた出張所は兵を派遣し、
隣接する西尾藩や重原藩からも応援が到着して、
大浜騒動は鎮圧されました。
「台嶺殉教之地」。
台嶺ら僧侶や殺害に関与した門徒数百名は捕らえられ、
代表の台嶺と役人を殺害した1人が、
西尾藩の牢獄で斬罪に処されています。
「吊魂碑」。
明治33年、一宮市の織布工場で火災が発生。
当時の女工の宿舎には施錠がされ、
窓には鉄格子が付けられていた為、
女工達は逃げ出す事が出来ず、
31名が焼死するという悲劇が起こります。
この犠牲者の多くが西尾市出身であった為、
慰霊碑がここに建てられました。
「巖護法城」。
大浜騒動の記念碑。三河一円の真宗寺院や、
有志達によって建立されたものです。
平和的な詰問および談判のはずが、
一部の信徒の暴走により、
一揆の体を成すことになってしまった大浜騒動。
このような廃仏毀釈に関連する騒動を「護法一揆」と呼び、
未遂を含めると10件ほど起こっています。
御一新(維新)で世の中が変わる事が、
全て良い事ともいえません。
我々なんて使用するPCのOSが、
バージョンアップしただけでもあたふたものです。
全てをひっくり返された明治の人々は、
どれだけのストレスだった事でしょうね。
■関連記事■
・下関市吉田 法専寺(首斬り六地蔵)
廃仏毀釈によって首を斬られたお地蔵様。
・愛知県西尾市 西尾城跡
西尾藩大給松平宗家の居城跡。
・愛知県刈谷市 重原陣屋跡
騒動鎮圧には重原藩からも応援が出されています。