天理市は、日本で唯一宗教団体の名称が使われています。
市制施行時に管区内の多く普及しており、
天理教教会本部の所在地でもあった事が理由という。
市内には「おやさとやかた」と呼ばれる建築物が立ち並び、
他所から来た者には不思議な雰囲気に感じられます。
天理教は幕末に興った新興宗教で、教祖は中山みき。
みきは山辺郡三昧田村の庄屋前川半七の家に生まれ、
幼少より慈悲深く、同情心の篤い少女であったという。
13歳で庄屋敷村の庄屋中山善兵衛に嫁ぎ、
良妻賢母として家をきりもみし、
慈悲深く善行を施したとされ、
実家が浄土宗の檀家であった為、
浄土宗の熱心な信者で、尼僧になることを希望し、
勾田村の善福寺にて五重相伝を受けています。
41歳の頃、長男中山秀司の足の病気の回復の為に、
山伏中野市兵衛に祈祷を依頼。
依坐が不在だった為にみきが依坐となりますが、
この際に憑依状態となり、
「天理王命」が憑依して天啓を受けます。
天理王命はみきを神のやしろに貰い受けたいと言い、
中山家は再三断りますが、
最終的に承諾すると憑依が解けました。
以後、みきは神命に従って近隣の貧民に財を分け与え、
安産祈願の「をびや許し」を始めます。
次第にみきを慕うものが増えてくるようになり、
他所に出向いて布教を行いますが、
神官や僧侶、医者などが批判して迫害を受けました。
維新後も継続して迫害を受けますが、
みきは信仰を貫いて度々留置、拘留を受け、
明治20年に死去しています。
「天理教教祖墓所」。
中山みきの墓は、
天理教の墓地である豊田山墓地にあります。
明治20年に死去したみきは善福寺に葬られますが、
明治25年に現在地に改葬されました。
その後、墓所周辺は教会関係者や信者の墓が建てられ、
神道式の簡素な石柱が立ち並ぶ、
巨大な墓地になっています。
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