ジャンルは違いますが、
僕もartisticな活動をしていた経験から、
愛知トリエンナーレを取り上げてみます。
まず始めに申し上げておきますが、
例の中止されている展覧会については、
現段階で再開すべきでないと思っています。
※内容の変更があればその限りではない。
要は「表現と公共」の争いなんですよね。
「表現の自由」を大義名分に掲げて、
色々言われる方がおられますが、
だからってなんでもやって良い訳ではない。
極端な話、
「これは怒りのアートだ!」と言って、
人を殺して良いかって云えばもちろんダメ。
上記は極端な例ですが、
普通に物事には制約があるわけで、
断り無しに一般人の顔を使ってもアウト、
人を肉体的に精神的に傷つけるのもアウト。
法的でもありますが倫理的なものです。
検閲だという意見でいえば、
検閲はしてはいけないと思う。
ただ何が検閲か?以下が検閲の定義です。
行政が主体となって、
思想内容等の表現物を対象とし、
その全部又は一部の発表の禁止を目的とし、
対象とされる一定の表現物につき、
網羅的一般的に発表前に内容を精査した上、
不適当と認められるものの発表を、
禁止すること。
今回の事例は、検閲には当たりませんね。
簡単な事です。
明らかに人を傷つけるような表現があった。
だから抗議した。それを受けて中止した。
ここまでは至極全うな流れです。
そこから意味不明な展開となったのですが、
その人を傷つけるような表現の作品を、
どうにかしなければならなかった。
どうにかする方法も多々ありますね。
作品に手を加えて、
人を傷つけるような表現を失くすか、
それが無理なら作品自体を展示しないとか。
これは作家の「やり過ぎ」に尽きるわけで、
税金を使った公共の場での展示会において、
不適切な表現が使用されて抗議を受けた。
作者はその事に気が付かずに、
純粋に作品を制作したのなら、
「ああ、それは気が付かなかった」
と反省し、
作品の修正と謝罪をすれば良いだけ。
修正できないなら作品を引っ込めるべき。
音楽の世界では歌詞や音源を変更するとか、
結構あることですよね。
なんで他のアートではそれが出来ない??
頑固に修正を拒否しますが、
それは芸術家を気取ってるだけ。
※まあ芸術家なんですが・・・。
「誰も傷つけない表現というものは無い」
と取り巻きに守られて粋がっている。
音楽はメジャーとインディーズとあります。
制約の差はメジャーの方が格段に多く、
メジャーアーティストはその制約の中で、
いかに音楽を表現するかを悩む訳ですが、
インディーズの自主製作では制約は緩く、
好きなものを好きなように表現して、
聞いてくれる人に聞いてもらえれば良い。
愛知のはメジャーといえるでしょうから、
それ相応の制約があってしかり。
他の作家が制約ギリギリで表現してる中、
一部のやり過ぎた参加者の為に、
その発表の機会を失っている。
そういう人の方が可哀想です。
この事で「表現の自由」は死にません。
むしろ良くなるのではないでしょうか?
制約が無い表現なんて芸術的価値は無い。
このことがわかってこそ、
本当の芸術家だと思いますね。
※今回はイデオロギー絡みですが、
記事は表現と制約に絞って触れています。
追記:2019/10/09
表現の自由が守られたと騒いでるので追記。
表現の自由はそこまで厳守する必要あるの?
まず前提として倫理観というものがあって、
そのうえで表現の自由が求められるのでは?
少し下品な話になりますが、
昔のTVではおっぱいが普通に出てた。
ドリフ等子供の見る番組にも出てましたが、
現在は自主規制でおっぱいはNGです。
これはコンプライアンスによって、
TV局側が自主規制しているもので、
仮に現在の番組でおっぱいを出したって、
別に法に触れるわけではない。
※もちろん相当叩かれます。
「子供も見てるから良く無いよね」
という倫理観から、
おっぱいを出すのは止めよう!
という事になったわけです。
これについて大反対する人は居なかった。
制作側もこだわりがあるわけでもなく、
「まあ仕方ないよね」程度。
出してる方も脱がないで良いなら良いし、
視聴者も「おっぱいが見たい」と言わない。
おっぱいの自主規制が完了致します。
ではアートの場合は?
何故こう上手に出来ないのでしょう?
主催者側はその表現にこだわりがあるのか?
作家もその表現にこだわる必要があるのか?
この辺でこじれてくるわけですね。
「表現の自由は守られるべき!」
このなんだかよくわからない呪縛に囚われ、
主催者も作家も観客も、
お題目のように唱えておりますが、
「他人に損害を与える場合は、
その限りではない」
ということは反論できない事でしょう。
それでも表現の自由を制限される事に対し、
死ぬほど恐れているのはどうしてでしょう?
「一度ダメになったら、
あれもダメこれもダメになる」
と思っているからです。
今回がダメになれば、
次はもっと厳しくなるかもしれないから、
だからどうしても死守しなければならない。
これが大学教授や評論家が危惧している事。
ただね。
ならば「何でもOKなの?」
って議論は誰もしない。
彼らはその議論から逃げてるのでしょう。
もうこれは一般常識の話です。
「これはOK!で、これはダメ!」
何故それが言えないのか?
常識の範囲内ではないですか?
おっぱいはダメなら、
次は足を出してもダメ、
今度は肩や背中もダメ、
顔出しもNG!
挙句の果ては女性はTVに出ちゃダメ!
↑こうなりますか??ならないと思うな~。
最後に皆様。
アートにどれだけ造詣がありますか?
そもそもアートって何ですか?
紙を丸めて「これはアートだ!」と、
作家が言い張ったら、
それはアートになるのが現代アートです。
その「くしゃくしゃの紙」を見て、
わかったふりして、
「ほ~すばらしいですね」と、
わからないのに言うのはもう止めましょう。
それはただの「くしゃくしゃの紙」です。
「なに?このゴミは?」と言えない世の中。
裸の王様に「裸だ!」と言えないのが、
本当の表現の不自由ではないでしょうか?
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