八田山招魂場は大島宰判が創建した招魂場。
大島戦争の戦死者18名及び、
大島出身の北越戦争戦死者2名、
大島ゆかりの3名を墓碑が建っています。
その後、東久賀招魂社、八田山招魂社、
大島護国神社、久賀護国神社、
そして大島神社と改称するに至り、
後の英霊三千有余柱も祀られました。
「大島神社」。
白い鳥居が珍しい招魂社です。
境内は綺麗に掃き清められていました。
「大島神社社殿」。
明治10年から招魂社祭を行ったとされ、
その頃に社殿が建てられたと思われます。
招魂場の創建は慶応元年となっていますが、
祭神が慶応2年の大島戦争殉難者ですので、
その前の創建というのが不思議。
何かの間違いでしょうか?
「維新墓地」。
社殿の裏手にある招魂場。
墓碑の23名は以下のとおり。
●大島戦争戦死者
松永熊蔵、金谷磯右ヱ門、野村吉蔵、
宮本和七、久行丈之助、国行雛次郎、
波多野五郎、泉徳太郎、仲木直太郎、
竹中甚之助、大谷八郎、松岡茂太郎、
冨山勇記、山本与吉郎、山脇種蔵、
岡本新太郎、大波野市蔵、藤本鹿之助、
岩本直吉
●芸州戦争戦死者
木田浅吉
●北越戦争戦死者
宮本和七、末武省作
●第二奇兵隊脱走騒動殉難者
楢崎剛十郎
●大島の勤皇庄屋
伊藤惣兵衛(病死)
さらに奥には八田八幡宮がありますが、
招魂場はその参道沿いに設けられたもの。
「八田八幡宮」。
貞観年間創建の久賀村鎮守の八幡宮。
秋祭りには引山太鼓が街を練り歩くという。
これで山口県下の現存する招魂場は、
これにてコンプリート致しました。
戦後心ない人々により招魂社、護国神社は、
間違った避難を受け、現在でもネットで、
見当違いの情報を流され続けています。
これら招魂場は隊、地域という括りにより、
戦死者を招魂しようという趣旨のもので、
軍国主義を煽るためのものでもなければ、
長州閥や官軍を称えるものでもありません。
各招魂社、護国神社は全く別の括りで、
それぞれの神社が祭神を定めています。
政権批判の為に歴史を捻じ曲げる輩が、
吉田松陰が全てで祀られているなど、
完全に嘘の情報を垂れ流していますが、
実際に調べてみれば全然違うとわかります。
隊やその地域の所縁ある人物が祭神であり、
非業の死を遂げた霊を慰める為のもので、
南洲墓地や白虎隊士の墓と同じなのです。
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