大洲鉄然は覚法寺住職大洲雪道の次男で、
右田の大田稲香、柳井の月性に学びました。
後に階位を得る為に西本願寺を訪ねますが、
手数料10両を求められた事に憤慨し、
出奔して堺で剣術道場を開きます。
どこで習得したかわかりませんが、
鉄然は剣、弓、やり、砲術にも長けており、
馬も乗りこなしていました。
桂小五郎と親交があったようで、
月性や桂の影響で尊皇攘夷思想を得て、
文久元年に上関の義勇隊に参加。
翌年には大島の同志と共に真武隊を結成。
第二奇兵隊では参謀となりました。
「覚法寺」。
旧街道沿いにある真宗本願寺派の寺院。
鉄然は月性の仏法護国論に共鳴し、
真武隊とは別に僧侶らで護国団を結成し、
大島戦争でこれを率いて戦功を挙げました。
「贈正五位大洲鉄然生誕地」。
山門脇に建てられています。
鉄然は説法が上手だったらしく、
聴衆が門を押し壊すほどだったとされ、
「門こかし」の異名もあったという。
維新後は、島地黙雷、赤松連城らと共に、
西本願寺の改革に取り組んでおり、
明治6年の神仏分離政策に反対し、
寺院寮や教部省の設立に尽力するなど、
仏教界を代表し新政府と折衝しました。
明治9年には真宗が禁止される薩摩に赴き、
各地で布教を行っていましたが、
間もなく西南戦争が勃発。
鉄然は捕らえて数ヶ月投獄されています。
後に功績により本山の執行長を務めた後、
故郷へ帰り明治35年に死去しています。
境内には「贈正五位大洲鐵然師碑」と、
大洲鉄然の墓もあったようなのですが、
リサーチ不足で境内には入らずに、
門前で手を合わせて退散してしまいました。
やはり門をくぐって手を合わせてこそ、
御利益があるのですねぇ・・反省。
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