長府の城下町のはずれにある覚苑寺は、
長府毛利家の3つある菩提寺のひとつ。
※他は功山寺、笑山寺。
下関攘夷戦の本陣はここに置かれました。
「覚苑寺山門」。
覚苑寺は長府藩3代藩主毛利綱元が、
綾羅木にあった利済寺を現在地に移し、
黄檗宗大本山万福寺の住持悦山道宗を、
勧請開山として迎えて創建した寺院。
「狩野芳崖像」。
山門を通ると現れる狩野芳崖の銅像。
狩野芳崖は長府藩御用絵師狩野晴皐の子で、
江戸に出て勝川院雅信に学び、
同門の橋本雅邦と共に勝川院の二神足や、
勝川院の竜虎と称されました。
維新後は事業に失敗して困窮しましたが、
米国人美術史家フェノロサと出会い、
洋画の要素を取り入れた新日本画を創生し、
僅かな期間で多くの名作を生み出して、
近代日本画の父となりました。
代表作は[不動明王][非母観音]など。
「野村素軒公徳碑」。
ツタが巻き付いて文字が隠れていますが、
元長州藩士の文部官僚野村素介の公徳碑。
小倉戦争で小倉城落城後に参謀となり、
同じく参謀の前原一誠と共に講和談判など、
戦後処理にあたっています。
維新後は山口藩の権大参事に就任し、
明治4年に岩倉使節団に随行し欧州を視察。
帰国後は文部省に大丞として出仕し、
文部大書記官、元老院大書記官を歴任し、
晩年は書家として活躍しました。
「長門鋳銭所跡」。
奈良時代には長門国の国府が置かれ、
長門国の国司は鋳銭司の役職を兼任し、
貨幣鋳造を行っていたようですが、
どこで鋳造が行われていたのか不明でした。
後に度々鋳銭遺物が見つかった事から、
境内を発掘すると鋳銭遺物が発見され、
ここが鋳銭所跡と判明したようです。
「大雄宝殿(本堂)」。
大雄宝殿は三田尻の海蔵醍醐寺の元本堂。
維新後、覚苑寺は長府毛利家の庇護を失い、
本堂を含む諸堂は取り壊されますが、
明治8年に本堂を移築しています。
覚苑寺は攘夷戦とその後の藩庁移転で、
長府藩主毛利元周の本拠となっており、
勝山御殿が完成して藩主が移った後は、
五卿の護衛として奇兵隊が駐屯しています。
晋作は功山寺挙兵前にここに来て、
[一里行けば一里の忠・・]と、
奇兵隊に挙兵への参加を訴えましたが、
賛同を得られずに遊撃隊と力士隊のみで、
功山寺挙兵を決行しました。
「乃木希典像」。
「長府は乃木大将の故郷だというのに
銅像の一つもない・・」
修学旅行生がそう話すのを聞いた住職が、
募金を募り昭和14年に完成させた銅像。
戦時中の銅の供出で失われましたが、
再度の募金で昭和33年に再建されました。
「方丈(庫裏)」。
廃藩後、勝山御殿が解体される際、
御殿の玄関部分を庫裏として移築したもの。
現在は石垣しかない勝山御殿ですが、
このような建物が建っていたわけですね。
ここが御殿の建物だった事がわかる鬼瓦。
「一文字三星」の家紋が描かれています。
毛利家の家紋を使うのは恐れ多いと、
鬼瓦を変えたのでしょうか?
さて、覚苑寺の裏手の墓地には、
長府藩主3、6、13代の墓所があります。
「瑞泉寺殿浄活湛然大居士」。
長府藩6代藩主毛利匡広の墓。
毛利匡広は清末藩の2代藩主でしたが、
断絶の危機にあった長府藩の藩主に就任。
その為に清末藩が一時断絶となりましたが、
匡広の七男毛利政苗が再興しました。
「龍沢院殿道正瑞霖大居士」。
長府藩3代毛利綱元の墓。
綱元は元禄赤穂事件の頃の藩主です。
幕府より赤穂浪士を預かった際、
普通の罪人扱いして非難されてますが、
罪人を罪人として扱った事に、
公的には全く咎はないでしょう。
倹約や文武奨励などに尽くした藩主で、
この覚苑寺は彼が創建させました。
「諦信院殿梅庵道機大居士」。
長府藩13代毛利元周の墓。
※隣は千賀子夫人(智鏡院)の墓。
元周は幕末期の長府藩主で、
攘夷戦、下関戦争、中山忠光の潜伏、
五卿の保護、功山寺挙兵、小倉戦争と、
事件が多発する地域の藩主として、
大変な立場だったろうと想像できます。
覚苑寺が攘夷戦での本陣になった理由は、
この寺が比較的内陸部にあった為。
海岸沿いにある長府陣屋では、
狙ってくれと言ってるようなものです。
奇兵隊の駐屯地となった理由は、
五卿警護の名目で駐屯してる為、
功山寺に近すぎず遠すぎずの覚苑寺が、
ベストだったのでしょう。
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