七戸南部家(麹町南部家)は、
盛岡藩3代南部行信の七男南部政信が、
5代で兄の南部重信より5000石を与えられ、
幕府に許可を得て旗本寄合席となった家系。
屋敷を江戸麹町に構えた為に麹町家と呼ばれ、
村崎野村及び浄法寺村を領していましたが、
後に盛岡藩の蔵米支給となりました。
5代当主南部信鄰は盛岡藩11代南部利敬に、
更に蔵米6000石を分知された為、
1万1000石で諸侯に列して、
盛岡新田藩として定府大名となりますが、
利敬の子で宗家12代南部利用が幼少の為、
後見役として盛岡で藩政に参与します。
※利用は将軍御目見前に死去してしまい、
藩は替玉の南部利済を立てていますが、
この件への信鄰の関与は不明。
次代南部信誉も南部利済の病臥で盛岡に下向。
盛岡藩の後見の他に駿府加番なども務め、
この功績によって城主格大名となっています。
信誉は利済の四男南部謹敦を養子としますが、
謹敦(後の南部利剛)は宗家の家督を継いだ為、
南部信民が七戸南部家の家督を継ぎました。
※信民は角屋敷三戸家の南部信也の四男。
その南部信民の墓所が瑞龍寺にあります。
「瑞龍寺山門」。
瑞龍寺は三戸郡名川町の法光寺の末寺で、
永禄元年(1558)に七戸野左掛村に開山。
寛永10年(1633)に現在地に移転しました。
七戸城城主南部直時が自らの菩提寺とし、
江戸時代を通じて南部家に庇護されています。
山門は三戸出身の棟梁立花善一郎のもので、
木造二層入母屋造の楼門は銅板葺ですが、
かつては茅葺だったという。
「本堂」。
立派な本堂は玄関がガラス張りとなっており、
寺務所も綺麗で立派でした。
訪問時は墓参りをする方々が結構多く、
檀家さんに恵まれているのかもしれません。
本堂向かって左手に墓地があるのですが、
お目当ての南部家墓所は見当たらない。
寺務所で感じの良い住職さんに教えて貰うと、
境内ではなく少し離れた場所との事。
上記の山門前には長い参道があり、
参道へ入ってすぐ右折した所にありました。
「南部家御霊屋」。
七戸南部家の墓所。
以前は御霊屋と御骨堂があったようですが、
現在は墓碑のみとなっています。
「瑞龍寺殿證山自公大居士」。
寺を現在地に移した七戸城主七戸直時の墓。
瑞龍寺中興の祖とされています。
「瑞雲院殿俊山宗雄大居士」。
盛岡藩初代南部利直の五男南部重信は、
直時の養子となって七戸家を継ぎますが、
後に宗家に帰って盛岡藩主となりました。
この墓は重信の長男七戸秀信のもので、
重信の盛岡藩主就任前に死去しています。
「正四位南部信民之墓(右)」、
「南部瑳久子之墓(左)」。
七戸藩3代藩主南部信民の墓と、
信民の継室瑳久子の墓。
信民は盛岡藩主名代として活躍し、
利剛の代わりに京都へも赴いています。
戊辰戦争後は新政府によって強制隠居となり、
養嫡子の南部信方に家督を譲りますが、
信方が幼少の為に七度藩の藩政を担いました。
継室の瑳久子は谷田部藩藩主細川興建の娘。
七戸には隠居後に初めて入封しており、
晩年も七戸で過ごしています。
ちなみに七戸藩は明治2年に立藩したもので、
麹町南部家は上記の様に蔵米支給の藩でした。
それが城主格になった為に陣屋が必要となり、
幕府は盛岡藩に陣屋地支給を命じます。
盛岡藩は三本木(十和田市)を陣屋地とし、
三本木陣屋を幕府に報告しました。
しかし実際には三本木に陣屋は建てられず、
蔵米支給が続けられたようで、
信民のお国入りは七戸ではなく、
宗家お膝元である盛岡城下だったとのこと。
このまま維新を迎えますが、
新政府の方針として領地の無い新田藩主は、
諸侯と認められません。
そこで盛岡藩大参事新渡戸傳は一計を案じ、
三本木含む七戸周辺を麹町南部家の領地とし、
七戸代官所が陣屋であると新政府に報告。
麹町南部家を諸侯とさせる事に成功します。
つまり七戸藩は維新後に出来た訳ですね。
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・青森県上北郡七戸町 七戸城跡①
七戸藩南部家の陣屋跡。
・岩手県盛岡市 聖寿寺②/盛岡藩南部家墓所
盛岡藩南部宗家の歴代墓所。
・岩手県盛岡市 盛岡城跡
盛岡藩南部宗家の居城跡。