中村藩相馬家は鎌倉より続く名家で、
鎌倉幕府の平泉遠征後に陸奥国に移住し、
約740年間領主として君臨しました。
関ヶ原の戦いの後に佐竹義宣が改易され、
親戚関係の相馬家も改易が決まりますが、
16代相馬義胤の嫡男相馬三胤が直訴し、
本多正信などの執り成しもあって、
改易は撤回されて本領が安堵されます。
相馬家本拠は約260年間小高城でしたが、
一時的に牛越城に本拠を移し、
再び小高城戻った後に中村城に移転。
16代当主義胤は隠居し、
嫡男の蜜胤が初代中村藩主となりました。
※三胤→蜜胤→利胤と改名。
相馬家歴代墓所は小高の同慶寺にあります。
「山門」。
建保元年(1213)に大林寺として創建。
後に13代相馬盛胤が先祖を供養して、
天台宗から曹洞宗に改宗させて、
寺名も同慶寺と改称。
江戸時代より相馬家菩提寺に指定され、
21代23代を除く16代からの当主や、
その正室や一族が葬られています。
「本堂」。
周辺は東日本大震災の原発事故により、
避難指示区域となっていた為、
本堂などの建物が相当傷んだという。
訪問時は本堂裏に基礎が造られており、
新しい建物が建てられるようです。
「霊堂」。
歴代当主や一族の位牌が納められる霊堂。
他に婚礼調度品等の所縁の品もあるという。
相馬家墓所は霊堂の裏手にあります。
墓所は震災当時のままなのか、
訪問前日の震度3の地震の影響なのか、
五輪塔の空輪(上部)が落ちているもの多い。
「第十七代利胤公」。
初代藩主相馬利胤の墓。
16代当主相馬義胤の嫡男で、
父義胤が石田三成と懇意であった為に、
一字を拝借して三胤と名乗っていましたが、
関ヶ原の戦いで三成が敗れた後は、
文字を変えて蜜胤と改名しています。
相馬家は中立の立場であった事から、
改易処分を受けることになりますが、
僅かな家臣と江戸に赴いて所領安堵を嘆願。
本多正信などによる説得が功を奏し、
改易の命は撤回されて所領は安堵され、
居城を中村城に移し中村藩を立藩しました。
後に大老土井利勝の偏諱を受け、
利胤と改名しています。
「第十八代義胤公」。
2代藩主相馬義胤の御霊屋。
初代相馬利胤の嫡男として生まれ、
父の死去により僅か7歳で家督を相続。
元服後は祖父と同じ義胤を名乗り、
中村藩の藩政の基礎を作っています。
寛永18年(1641)の桶町火事で、
手勢を率いて消火活動を行っていますが、
落馬して負傷しています。
※この件で防火体制を見直す事となり、
常備消防隊として大名火消しが創設。
慶安4年(1651)に急病で継嗣なく死去。
名君と慕われながら若くして死去した為か、
この義胤のみ御霊屋が建てられています。
「第十九代忠胤公(右)」、
「第二十代貞胤公(中央)」、
「第十九代忠胤公室(左)」。
3代藩主相馬忠胤及び4代藩主相馬貞胤、
3代忠胤の正室亀姫の墓。
忠胤は久留里藩2代土屋利直の次男で、
2代義胤が急死してしまった為、
義胤の娘亀姫を娶って家督を相続します。
義胤が将軍家と婚戚関係であった為が、
当時は異例の末期養子が認められており、
忠胤も幕府と密接な関係を築き、
藩政では新田開発や倹約令など行い、
名君と称えられました。
4代貞胤は3代忠胤の嫡男として生まれ、
父忠胤の死去により家督を相続。
しかし僅か6年で継嗣なく早逝してしまい
実弟の相馬昌胤が家督を継いでいます。
その5代相馬昌胤の墓は大聖寺にあり、
この同慶寺の墓所にはありません。
「第二十二代叙胤公」。
6代藩主相馬叙胤の墓。
久保田藩3代佐竹義処の次男として生まれ、
5代昌胤の婿養子となって継嗣となり、
昌胤の隠居によって家督を相続。
後に昌胤の実子相馬尊胤を養子とし、
隠居して家督を譲っています。
7代尊胤の墓も大聖寺にあり、
同慶寺の墓所にはありません。
「第二十四代恕胤公(右)」、
「第二十五代祥胤公(左)」。
8代藩主相馬恕胤及び、
9代藩主相馬祥胤の墓。
9代恕胤は6代叙胤の三男相馬徳胤の子で、
7代尊胤の継嗣の父徳胤が死去した為に、
尊胤の嫡孫となっています。
祖父尊胤の隠居によって家督を相続し、
18年の治世の後に隠居しました。
9代祥胤は8代恕胤の三男として生まれ、
父恕胤の隠居によって家督を相続。
治世では天明の大飢饉が発生しており、
飢饉への備えをしていなかったと、
幕府より失政を咎められています。
「大隆院殿前豊州太守英巌徳応大居士」。
10藩主相馬樹胤の墓。
9代祥胤の嫡男として生まれ、
父祥胤の隠居によって家督を相続しました。
11年の治世の後に弟に家督を譲って隠居。
「繼起定公以徳院前長州太守
寛量昭潤大居士(右)」、
「仙齡院殿高運智賢大姉(左)」。
11代藩主相馬益胤と正室高姫の墓。
兄樹胤の養子となって家督を継ぎ、
藩財政の改革などを行っていますが、
18年の治世の後に隠居しました。
「本明院殿心性無染大姉(右)」、
「天性院殿智徳明圓大姉(左)」。
12代藩主相馬充胤の正室永姫と、
継室銛姫の墓。
没年は安政3年、4年となっており、
永姫死去の翌年に継室銛姫が嫁ぎますが、
銛姫はその年に夭折してしまったようです。
充胤は財政再建の為に二宮尊徳を招き、
報徳仕法の指導を受けており、
幕府の許可を得て報徳仕法を導入し、
財政の立て直しに成功しています。
慶應元年に隠居していますが、
そのまま藩政には関与していた為、
戊辰戦争に敗れると謹慎を命じられました。
その12充胤の墓や13代相馬誠胤の墓は、
東京の青山霊園にあるようです。
山門を出た境内の外に義胤の墓があります。
「第十六代義胤公」。
16代当主相馬義胤の墓。
奥州の覇権を目指す伊達政宗に対し、
佐竹家、岩城家と共にこれに対抗。
一時窮地に立たされますが、
豊臣秀吉の奥州仕置で所領を安堵されます。
関ヶ原の戦いでは中立の立場をとった為、
相馬家は改易処分となりましたが、
後に嫡子を以って再統治する事が許され、
家督を利胤に譲って隠居。
寺のある小高は相馬家の元本拠地ですが、
中村城から30km近く離れています。
菩提寺としては不便であった為か、
小高城を約260年間居城としており、
相馬家には特別な土地だったようです。
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