福島県双葉郡 大聖寺/中村藩相馬家墓所

相馬中村藩5代藩主相馬昌胤は、
久保田藩3代佐竹義処の次男を継嗣に迎え、
※後の6代藩主相馬叙胤。
病気を理由に家督を譲って隠居。
隠居所北原御殿大聖寺裏手に建設し、
約30年間の余生を過ごしました。
中村藩相馬家の歴代墓所は同慶寺ですが、
御殿跡に建立された興仁寺に埋葬され、
後に7代相馬尊胤も埋葬されています。

明治3年に興仁寺は現在の相馬市に移転し、
跡地に大聖寺が移って現在に至っています。

大聖寺」。
大聖寺は福島第一原発から10km弱。
長い間避難指示区域に指定されていました。
平成25年に避難指示解除準備区域となり、
日中の立入りのみが可能となってから、
平成29年に避難指示が解除されるまで、
住職や檀家が整備を続けたようです。


相馬家御廟所」。
大聖寺の北側の墓地にある相馬家の墓所。
ここに6代昌胤及びその一族、
7代相馬尊胤とその正室が眠っています。


建徳院殿 昌胤公」、
本立院殿 昌胤公令室」。
5代藩主相馬昌胤と正室多禰姫の墓。
※碑銘が読めずどっちが昌胤が不明。
相馬貞胤の末期養子として家督を相続。
正室の多禰姫は水戸光圀の姪にあたり、
長女品姫(後の6代相馬叙胤正室)、
次女勝姫の誕生の際には、
知らせを聞いた光圀が駆け付けたという。
昌胤は将軍徳川綱吉御側御用人を務め、
藩政では逼迫する藩財政の再建の為に、
全家臣の俸禄1/10を3年間借上げたり、
権力集中の為に重臣の特権を削減しており、
精力的に藩政改革を行っていますが、
病気を理由に若くして隠居。
この地に隠居所を建設して移り住み、
次男の千代松と共に生活しています。
※この千代松が後の7代尊胤。
享保13年(1728)に死去。


寿高院殿 尊胤公」、
実相院殿 尊胤公令室」。
7代藩主相馬尊胤と正室丈姫の墓。
※こちらもどっちが尊胤が不明。
5代昌胤の次男として生まれ、
6代叙胤の養嫡子となって家督を相続。
57年の長期政権の後に隠居し、
6代叙胤の孫相馬恕胤に家督を譲り、
江戸藩邸で死去しました。
遺骸は荼毘に付された後に中村に送られ、
父の眠る興仁寺の墓地に葬られています。

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