三池藩立花家は柳河藩立花家の支流ですが、
幕府より加増を受けて大名となっており、
宗家の柳河藩立花家の支藩ではありません。
しかしながら三池藩初代藩主立花種次は、
柳河藩初代立花宗茂の甥であり、
その所領は柳河藩と同じく筑後国にあり、
何かと宗家の援助を受けていました。
6代藩主立花種周は外様ながら大番頭、
奏者番、若年寄などを務めており、
老中松平定信の主導する寛政の改革に参加。
定信失脚後も若年寄に留任していましたが、
大奥の改革に関わる政争に敗れて解任され、
種周は強制隠居させられました。
跡を継いだ立花種善は懲罰的移封となり、
陸奥国伊達郡の下手渡1万石に移されて、
新たに陣屋を建設しています。
「耕雲寺」。
天正3年(1575)開基の曹洞宗の寺院。
立花家が下手渡に移った際に、
藩主家及び家臣の菩提寺となりました。
堂宇は戊辰戦争で仙台藩に焼かれており、
とりあえず仮堂が建てられた後に、
明治17年に本堂が再建されましたが、
明治35年の暴風雨で倒壊してしまい、
再び仮堂に戻って現在に至るという。
「立花家墓所」。
山の斜面に並ぶ下手戸藩立花家の墓所。
「龍潭院殿従五位下立花種周之墓」。
三池藩6代藩主立花種周の墓。
三池藩5代立花長煕の次男として生まれ、
兄の早逝に伴い継嗣となり、
父長煕の隠居によって家督を相続。
上記のように幕政に参加していますが、
政争に敗れて強制隠居処分となっており、
下手渡に移って間もなく死去しました。
「真厳院殿従五位下立花種善之墓」。
下手渡藩初代(三池藩7代)藩主立花種善の墓。
種周の四男として生まれますが、
兄らの早逝により継嗣となって、
父の強制隠居に伴い家督を相続しますが、
懲罰的転封で下手渡藩を立藩しました。
この新たな地に陣屋を築き、
藩政の基礎を作ったようで、
善政を敷いたとされています。
「円融院殿従五位下立花種温之墓」。
下手渡藩2代藩主立花種温の墓。
初代種善の長男として生まれ、
父の死去によって家督を相続しました。
治世で天保の大飢饉が発生しており、
蔵米解放や年貢減免を行って対応。
領民より名君と慕われたようです。
「立花種恭之墓」。
下手渡藩2代及び、
三池藩初代(2度目)藩主立花種恭の墓。
三池藩6代種周の五男立花種道の子で、
嘉永2年に2代種温が急死した為、
末期養子として家督を相続。
所領の半分を旧領の筑後国に移され、
旧藩庁三池陣屋に藩士らの半数を移します。
幕政に参加し大番頭、若年寄を経て、
慶応3年に会計総裁に就任しました。
鳥羽伏見の戦い後に役を辞して帰還し、
新政府への恭順を決めて上洛しますが、
その後に下手渡陣屋の家老屋山外記が、
奥羽越列藩同盟に加盟しています。
仙台藩は恭順していた事を知ると、
藩領に侵攻して城下を焼いて陣屋を攻撃。
柳河藩や徳山藩などが救援に駆けつけた為、
やむなく仙台藩は撤退しましたが、
城下や陣屋は完全に焼失してしまい、
戦後は藩庁を再び三池に戻しました。
廃藩置県後は学習院初代院長を務め、
貴族院子爵議員に終生在任しています。
明治38年に死去。
青山霊園に埋葬されますが、
先祖の眠る地に慰霊墓が建てられました。
「下手渡藩侍墓地」。
藩主家の墓所より1段下には藩士達の墓が。
全て藩主家墓所の方向を向いており、
死後も忠誠を尽くしているという。
■関連記事■
・東京都港区 青山霊園/立花種恭墓所
最後の藩主立花種恭の本墓。
・福島県伊達市 下手渡陣屋跡
下手渡藩立花家の陣屋跡。
・福岡県大牟田市 三池陣屋跡
維新後に三池陣屋に藩庁を移しています。
・福岡県柳川市 柳川城跡
宗家の柳河藩立花家の居城跡。