長府の商店街沿いにある正円寺は、
樹齢千年の銀杏樹が本堂前にそびえるお寺。
ここに洋式砲術家河崎董の墓所があります。
「正円寺正門」。
正円寺はもともと現在の位置ではなく、
北に1km行った山中にありましたが、
長府藩の政策で山陽道沿いに移されました。
本堂は明和3年(1766)に建立されたもの。
「長府正円寺の大イチョウ」。
正門を入るとすぐに目に飛び込むのが、
樹齢1000年の銀杏の古樹。
本堂の左側に墓石が並んでおり、
お目当ての河崎董の墓があります。
「贈正五位河崎董之墓」。
河崎董は幼名を虎吉といい、
長府藩士羽仁源右衛門の長男として生まれ、
性質豪放で酒を好み、
酔って人を傷つけることもあったという。
やがて周囲に嫌われて廃嫡されていますが、
成長すると反省したのか態度を改め、
同藩士河崎順之助の養子に収まります。
後に家督を相続し江戸藩邸詰となって在勤。
長府藩が武蔵国大森の守備を命ぜられると、
河崎も守備兵の一人として赴きます。
そこで長州藩の来原良蔵と知り合い、
洋式兵術などを教えられ大いに感銘。
自藩の兵制改革の必要性を確信します。
江戸で下曾根金四郎らに蘭式砲術を学び、
講武場にも入所して西洋流銃陣を習得。
安政元年に洋式大砲を鋳造する際には、
その一切を取り仕切ったとされています。
その大砲が攘夷戦、小倉戦争などで活躍し、
後の戊辰戦争でも使用されており、
その大砲が[自勝砲]と名付けられて
桜山招魂社に奉納されました。
※現在の桜山神社には無いそうです。
金属供出によって失われたのでしょう。
大砲鋳造と同時に洋式銃陣の訓練も行われ、
これも河崎が指導することになりました。
以後は長府藩の西洋流砲術指南役として、
兵制改革、銃砲術師範、諸砲台の建造など、
長府藩の軍政改革のすべてに関与。
その功績は長州藩主毛利敬親にも聞こえ、
敬親直々に刀一振を与えられました。
大村益次郎とも互いに往来して海防を論じ、
奇兵隊幹部らにも三兵の講義を行いました。
また地雷術も心得ており、
小倉戦争の際には砲台不足を補うために、
数千の地雷を埋めて備えます。
その後の戊辰戦争でも銃器弾薬の製造、
その運搬計画などを企図しました。
この多才な技術者は明治元年頃、
体調を崩して隠居しており、
明治4年に死去しています。
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