下関市長府 功山寺/下村文次郎墓所

功山寺の墓地には三吉慎蔵や、
泉十郎豊永長吉(印藤聿)、
三吉周亮等の墓があることが知られますが、
まだ多くの人物の墓があったりします。
有名どころ以外は説明板も無く、
無縁となったりしてるものは、
整備されずに草に覆われていたりします。
墓地内を歩き突状方柱型の墓石を見つけ、
没年が慶応や明治初期だったりしたら、
調べてみると意外な人物だった。

そんな感じで、
あまり知られていない墓を探してみます。

豊永長吉(印藤聿)の墓所の手前。
長府報国隊六番小隊司令の墓。


下邨文次郎墓」。
※邨は村の旧字体(ソン・むら)。
下村文次郎は藩医上里幽斎の長男に生まれ、
同藩士下村重次郎の養子となっています。
藩校敬業館で文武を学び特に武道に秀で、
砲術指南役河崎董(記事はこちら)に師事し、
西洋砲術を学びました。

小銃の射撃訓練中に銃の雷管が暴発し、
左目を失明してしまいますが、
それでも修練を続け安岡の独眼竜と、
渾名されるようになります。
また安岡で農商の子弟達に銃砲の技を教え、
民兵吾住隊を組織。
下関での攘夷戦に出陣し、
民兵ながら十分に訓練された吾住隊は、
藩内で注目されることとなりました。

幕長戦争がはじまると、
吾住隊は長府報国隊の傘下に入り、
六番小隊となって隊長の下村は、
そのまま小隊司令に就任。
小倉戦争の初戦である田ノ浦上陸戦で、
第一陣として突入し大いに活躍しました。

続く大里の戦い
逃げていく敵兵を追いかけた六番小隊は、
渋田見舎人の軍勢と乱戦になります。
しかし飛んできた流れ弾が下村の胸を貫き、
「無念」と一声発してその場に倒れます。
半隊司令徳永権次郎(記事はこちら)は、
すばやく下村の首を斬り落とし、
小脇に首を抱えて指揮を引き継ぎました。
・・・が、
程なく徳永も銃弾に倒れてます。
しかし下村が訓練した小隊は、
その程度では崩れる事を知らず、
一番、三番小隊が駆け付けた事もあって、
小倉勢は四散して勝利しました。

遺骸は持ち帰られ桜山に埋められたという。
この墓石は安岡に建てられていたもので、
後年に功山寺に移されたとのことです。

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 首級を斬り落とした徳永権次郎の墓など。
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