精兵隊発起人のひとり有川恒槌の墓が、
長府の功山寺にあります。
「有川紀綱神霊塚」。
有川家墓所の隅の古い墓石と共に、
並べられていました。
有川恒槌は別名有川紀綱ともいい、
長府藩士有川乃右衛門の長男として生まれ、
一を聞けば二を知ると噂されており、
幼い頃より秀才として周囲に知られ、
14歳で藩校敬業館に進んで文武を修め、
特に槍術では自得流の達人でした。
体格にも恵まれた偉丈夫でしたが、
人に接しても猛々しいところはなく、
文武兼備の士として評価されています。
勤皇の志厚く語りあっても論は明白で、
時流に流されたものではなかったという。
文久2年に藩主上京の際、
有川は追従の選に漏れた為、
悩んだ末に脱藩して京都に上り、
天下の形勢を探り藩に報告する事にします。
京都で藩主に拝謁して脱藩の罪を謝し、
藩主も功を認めて罪を問いませんでした。
その後は衛士として加茂行幸等に参加。
帰郷すると下関攘夷戦が起こりますが、
藩では一部を除いて士風が振るわず、
有川はそれを嘆き、
野々村勘九郎らと共に精兵隊を結成。
後に八月十八日の政変が発生し、
長州藩は京都から追い出されます。
久坂玄瑞らが状況打開に奔走しますが、
どれも功を奏さず形勢は悪くなる一方。
この状況に二度目の脱藩を決行し、
久坂らと合流して暗躍しています。
※精兵隊は中心人物を失って解散。
やがて池田屋事件を経て禁門の変。
有川は久坂らと共に鷹司邸に入りますが、
久坂、寺嶋忠三郎らに死所を与え、
自らは敵に向かって突進して戦死しました。
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集堂場教頭福田扇馬の墓。
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