長府藩の藩校であった敬業館は、
15歳以上の藩士子弟しか学ぶ事は出来ず、
この状況に嘆いた福田扇馬は私塾を開設し、
身分年齢を問わず生徒を受け入れました。
この福田扇馬の墓が功山寺にあります。
「福田正則之墓」。
福田扇馬正則は藩医の子として生まれ、
幼少より才智に優れて敬業館に学びますが、
足の病で自力で起き上がれない体となり、
自宅に[桜柳亭]という私塾を開いて、
子弟の育英に勤めました。
福田は敬業館で学んでいる頃より、
士分でないと学問が出来ないことを憂い、
誰でも学べる私塾を開設。
文武両道を目指して大楠公をその範とし、
可否両説に分けられる議題を子弟に与え、
可と思う者、否と思う者で討論させて、
最後にその可否をそれぞれに説明して、
答えを導き出す教育方法だったという。
この方針に賛同した友人の熊野直介らは、
一般子弟教育の重要性を藩主に建白。
これが取り入れられて集堂場が開設され、
身分問わず学びたい者に門戸が開かれます。
後に藩に海軍の創設を建白しますが、
これが受け入れられなかった為に、
集堂場を辞して赤間関の外人応接所に入り、
英語を学んた後に全国各地を遊学した末に、
大坂の開成学校に入学しています。
維新後は大阪府に出仕していますが、
体調を崩した為に長府に帰郷。
養生後に再度大阪に出て中学教師となり、
その後には模範幼稚園監事などを務め、
再び体調を崩して帰郷しました。
明治25年に長府で死去。
多くの人材を育てた教育者でしたが、
それを知る人はあまりいません。
わずかに忌宮神社の境内の片隅に、
桜柳亭の事を記した碑があるのみです。
「家塾桜柳亭之碑」。
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