奥の院墓地にある中村藩相馬家の墓所。
鎌倉御家人千葉常胤の二男相馬師常は、
文治5年(1189)の奥州合戦で戦功を挙げ、
源頼朝より陸奥国行方郡を拝領。
後に5代相馬重胤が移住して本拠とし、
以降約740年間周辺を支配しています。
「中村藩相馬家墓所」。
相馬家は豊臣政権で本領を安堵されますが、
関ケ原の戦いで出陣要請に応じなかった為、
一時相馬家は改易処分となりました。
この状況に同じく出陣要請を受けず、
出羽国秋田に転封となった佐竹義宣は、
16代当主相馬義胤に所領の裾分けを提案。
義胤はこの提案を受けようとしますが、
嫡子相馬三胤(利胤)はこれに反対し、
自ら江戸に出て直訴を行い、
僅かな領地で旗本となったとしても、
相馬家の名を遺せれば本望と主張します。
この意見を義胤は受け入れた為、
石田三成と同字の「三」の字から、
「蜜」の字に変えて相馬蜜胤として直訴。
本多正信のとりなしもあって、
改易処分は取り消されました。
以下は19~22代当主の墓。
「廣徳院殿方山貞義大居士菩提(手前)」。
19代当主(3代藩主)相馬忠胤の墓。
忠胤は久留里藩2代土屋利直の次男で、
中村藩2代相馬義胤が継嗣なく死去した為、
義胤の娘亀姫を娶って家督を相続。
藩政では領内検地を行った他、
年貢減免や積立金制度を実施しており、
新田開発も行っています。
延宝元年(1673)、死去。
隣は碑銘は読めませんが亀姫の墓です。
「光明院殿瓊巌周英大居士菩提」。
20代当主(4代藩主)相馬貞胤の墓。
貞胤は3代忠胤の長男で母は亀姫。
父の死去に伴い家督を継ぎますが、
僅か6年の治世で死去しています。
「建徳院殿勢誉峻巌孔照大居士菩提(左)」、
「本霊院殿卓然貞高大姉菩提(中央)」、
「香雲院殿靉翁玄靆大居士菩提(右)」。
21代当主(5代藩主)相馬昌胤の墓、
21代昌胤の正室多禰姫の墓、
22代当主(6代藩主)相馬敍胤の墓。
昌胤は3代忠胤の次男で母は亀姫で、
兄が継嗣無く死去してしまった為、
末期養子として家督を相続。
22年の治世の後に隠居しており、
享保13年(1728)に死去しました。
敍胤は久保田藩3代佐竹義処の次男。
5代昌胤の婿養子となっており、
その隠居に伴い家督を相続します。
昌胤の幼い息子を養嫡子とし、
僅か8年の治世で隠居しました。
今回見落としてしまいましたが、
16代当主相馬義胤の墓、
17代当主(初代藩主)相馬利胤の墓、
18代当主(2代藩主)相馬義胤の墓が、
ここに建立されていたようです。
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