現在の最教寺のある場所は、
空海が唐より帰国した際に、
護摩を炊いたとされる場所。
この事から平戸藩初代藩主松浦鎮信は、
真言宗寺院の建設を思い立ちますが、
当時そこには曹洞宗寺院が建っていました。
鎮信は寺の住職に移転を要求しますが、
住職はこれを拒否した為、
怒った鎮信は寺を焼き払い、
その跡地に最教寺を建立しています。
鎮信はこの事により亡霊に悩まされますが、
ある日最教寺に参詣したところ、
参拝客の赤子の泣き声で、
憑りついていた亡霊が退散。
以後は亡霊が出て来なくなりました。
これに因み最教寺では毎年節分の時期に、
子泣き相撲が開催されているようです。
「本堂」。
安永3年(1774)建立の入母屋造の本堂。
本尊は虚空蔵菩薩像で、
西の高野山とも称されますが、
実際に山号も[高野山]となっています。
本堂裏手より奥の院への参道の途中、
脇道を進むと初代鎮信の墓所があります。
「法印鎮信之墓」。
初代藩主(26代当主)松浦鎮信の墓。
25代当主松浦隆信の長男として生まれ、
父隆信の隠居に伴い家督を相続し、
隆信が伸ばした勢力を盤石としました。
一時龍造寺隆信の傘下に入りますが、
龍造寺隆信は沖田畷の戦いで討死した為、
再び独立して豊臣秀吉といち早く通じ、
九州征伐やその後の豊臣政権で地位を確立。
朝鮮出兵では無敗の戦果を挙げています。
関ケ原の戦いでは東軍に属しており、
所領を安堵されて平戸藩初代藩主となり、
藩政の基礎を築きますが、
家督を譲った長男松浦久信は急死し、
孫の松浦隆信(曾祖父と同名)が家督を継ぎ、
その後見として継続して藩政に関与。
対外貿易が幕府により禁止されるまで、
オランダとの貿易を推進し、
慶長19年(1614)に死去しました。
九州の大名の多くがキリシタンとなる中、
鎮信は熱心な真言宗信徒で、
出家して法印の位を与えられています。
参道へ戻って奥の院へ。
「奥の院(右)」と「三重塔(左)」。
慶長14年(1609)再建の奥の院と、
平成元年に建立された三重塔。
三重塔は日本最大級の大きさという。
[子泣き相撲]はここで開催されるらしい。
※去年と今年はコロナ禍で中止。
奥の院からさらに登り、
25代当主松浦隆信の墓へ。
途中に長者の墓がありました。
「大渡長者の墓」。
鎌倉時代末期に建立された五輪塔。
貧しい塩売商人から豪商に登り詰め、
領主の松浦家を凌ぐ財力となりましたが、
後継者に恵まれなかった為、
一人娘を16代当主松浦勝に嫁がせて、
自らの財産や膨大な土地を献上し、
隠遁してしまったという。
この大渡長者の墓を目印として、
向かいの小道を進んで25代隆信の墓へ。
周辺には平戸藩重臣の墓所が並びます
「道可隆信之墓」。
25代当主松浦隆信の墓。
隆信はポルトガルとの貿易を推進し、
その利益を背景に軍事力を強化し、
総領のいない松浦党の統一を図り、
松浦家を小領主から戦国大名へ躍進させ、
平戸藩の基礎を創った名君とされます。
ちなみにこの最教寺には、
文禄慶長の役で朝鮮より連れて来られ、
鎮信の側室となった小麦様の墓が、
三重塔の裏手あたりにあったようです。
気が付かずに通り過ぎてしまいましたが、
この小麦様が生んだ鎮信の次男は、
西口松浦家を興して家老家として存続。
この最教寺に墓所があります。
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