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松浦家の21代当主であった松浦義は、
室町幕府6代将軍足利利教により、
肥前守に任じられていましたが、
義教は嘉吉の乱で赤松満祐に殺されます。
義は義教の追悼の為に出家して融義と称し、
勝尾岳中腹に善山普門寺を建立しました。
しかし家臣が訪ねてくるのが気に障り、
木ヶ津に妙幢寺を開山して移住しています。
融義の死後に妙幢寺は廃寺となり、
5代藩主松浦棟は妙幢寺跡に西林寺を移し、
松林寺と改称し後に龍瑞寺と改めました。
10代藩主松浦熈はある老人から、
隠居後は領内で隠棲すれは藩費が抑えられ、
領民にも益になる事を教えられ、
若年期より隠居地と墓所を検討しており、
複数の候補地から龍瑞寺が選ばれます。
熈は天保12年に長男松浦曜に家督を譲り、
弘化元年に寿塔(生前墓)を建立。
死去した正室秦姫の墓を雄香寺より移し、
墓所を寿塔場として整備しました。
熈は隠居後も11~12代藩主を後見し、
平戸で余生を過ごして慶応2年に死去。
計画どおりに龍瑞寺に埋葬されます。
後の神仏判然令で普門寺が廃寺となり、
明治3年に山号寺名寺品が龍瑞寺に移り、
現在は善山普門寺となっています。
「文明館(本堂)」。
松浦義が文明年間に移住したのに因み、
文明館と名付けられた本堂。
老朽化に伴い建て直されています。
茶室として利用される事が多かったという。
「景粛堂」。
10代熈が大切に育てていたという大杉が、
台風によって倒れた事を何かの因縁とし、
その大杉のみを部材として建設された御堂。
別名一本堂とも称され、
堂内では火の使用が禁止され、
線香も不要とされていたようです。
「當寺再興源朝臣熈之壽塔(右)」、
「熈妻秦子之塔(左)」。
平戸藩10代藩主松浦熈と正室秦姫の墓。
熈の生前に建てられた墓で、
自筆の書で碑銘が刻まれています。
正室の泰姫は老中松平定信の娘で、
既に他界して雄香寺に葬られていましたが、
熈の寿塔の隣に水向塔が建てられ、
遺髪が納められました。
熈は治世では財政難を打開する為に、
シジミの養殖などの殖産振興や、
新田開発などに尽力した他、
洋書やテレスコープ、エレキテルなど、
西洋品の収集を趣味とする一方で、
神仏を敬い寺社の復興にも力を注ぎ、
領内の霊場にも参詣しており、
信仰心も深かったとされています。
熈は平戸で生まれて隠居後も平戸で過ごし、
歴代藩主の中でも領内への思い入れは、
大変強かったと思われます。
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