下関は幕末の重要な事件が多数発生しており、
※攘夷戦、功山寺挙兵、小倉戦争など。
幕末史跡の多い場所なのですが、
明治以降に大規模な下関要塞が建設された他、
空襲での破壊、戦後の発展などに伴い、
多くの遺構が失われています。
今回取り上げる椋野陣屋跡に関して云えば、
正確な位置も判っていません。
「長府毛利家乗」の文久3年5月2日には、
「営を椋野村に造り移住する宗家を議す。宗家
之を可す。椋野村は府城と赤間関の間に在り、
是に於て府関を左右にし、壇浦を前にし地理
の便なるを以て専ら海防を指揮せんと欲し営
を此に設くるを議す。然れとも其狭隘なるに
由り後ち更に勝山を択て之に営し椋野は報国
隊兵屯戍の地となす」とあり、
訳:本営を椋野村に建造して移住する旨を、
宗家と相談して宗家はこれを許す。
椋野村は長府陣屋と赤間関の間にあり、
長府-赤間関を左右にして壇ノ浦を前にし、
地の利を生かして海防を指揮しようと、
本営をここに設置する議論をした。
しかしその狭さ故に断念し、
後に勝山への移転が選択され、
椋野村には報国隊の営所が設けられる。
椋野村に陣屋の移転が計画されますが、
土地が狭かった事からこれを断念し、
後に勝山に陣屋が移転され、
椋野村は長府報国隊の営所となったようです。
ではその報国隊の椋野陣屋跡はどこなのか?
椋野町周辺の航空写真
現在の椋野町から察するに、
A.の比較的開けた場所、B.の一里山、
C.の関山、D.の谷間のどこかでしょう。
狭い事が理由で断念されたようですので、
A.ではないと思われますし、
ここでは防御に難がありそうです。
有力視されているのがB.かC.の山頂で、
特にC.の関山は関門海峡も見渡せる為、
直接指揮するのには都合か良い。
ただ藩主居城としては海に近すぎで、
心もとない気もします。
このB.C.の両山には明治期に砲台が設置され、
要塞地となってしまった為、
何れも陣屋があった形跡は皆無。
もう1つの両山谷間のD.の位置も、
後の勝山御殿の形状からすると、
一番近いものではありますし、
北側背後がもう少し険しかったと仮定すると、
結構有力ではないでしょうか?
結局どこかは特定できませんが、
他の営所や陣屋が山頂に無かった事から、
個人的にはD.じゃないかなと思う次第です。
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