厚狭毛利家は長州藩一門家老家のひとつで、
毛利元就の八男末次元康を祖とします。
関ヶ原後に宗家が防長二国に減封された後、
長門国厚狭郡周辺を与えられており、
厚狭毛利家と呼ばれるようになりました。
元康の跡を継いだ2代当主毛利元宣は、
厚狭郡末益村に居館を構えており、
領内の経営を行っていますが、
当主は一門家老として萩に在住し、
三ノ丸に広大な屋敷を構えていました。
「厚狭毛利家居館址」。
日本化学(株)殿町寮周辺が居館跡。
周辺に石垣が僅かに残っているようです。
厚狭毛利家は宍戸家、右田毛利家に次ぎ、
一門家老家第三席の名門であった為、
上記したように当主は萩で家老を務め、
歴代当主は萩に在住していましたが、
長州藩における文久の改革の土着令により、
10代当主毛利元美は厚狭の居館に居住。
その為に歴代当主の中で最も関係が深く、
地域の発展に妻毛利勅子と尽力しました。
※元美は俗論派であった為、
正義派政権の誕生後は謹慎しています。
居館は廃藩後に払い下げされて解体。
元美は明治18年に死去し、
11代は孫毛利英之輔が相続していますが、
12代当主毛利四一の2人の子は、
先の大戦で戦死。
厚狭毛利家は断絶しました。
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厚狭毛利家の歴代墓所。
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毛利勅子の招魂碑があります。
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厚狭毛利家が創建した招魂社。