本行寺は荒川区日暮里にある日蓮宗の寺院。
太田道灌の孫太田資高が建立し、
江戸時代に神田、谷中と移転しており、
宝永6年(1709)に現在地に移りました。
周辺は景勝地である為に月見寺と称され、
※隣接の青雲寺は花見寺、浄光寺は青雲寺。
風流を好む文化人が集まったとされます。
「本行寺」。
境内は月見の名所であったとされ、
上記したように文人達が訪れていたようで、
特に20世日桓上人は多くの俳人と交遊し、
特に小林一茶と親交があったようで、
境内には一茶の句碑などが建っています。
加納藩永井家5、6代藩主の墓が、
本行寺墓地にあります。
「永井家 大内家之墓」。
両家墓となっているようですが、
これについての事情はわかりませんし、
詮索するべきでもありません。
この墓に加納藩5代藩主永井尚典夫妻及び、
6代藩主永井尚福夫妻が合葬されています。
最近まで2人の墓があったようですが、
処分されてしまった模様。
尚典は4代永井尚佐の三男として生まれ、
父の死去により家督を相続しています。
藩政では家臣団の統制を行ったようで、
家中の引き締めを図っており、
幕政では江戸城の各門番を務めた他、
善福寺の米国公使館の警護を担当。
文久元年には奏者番に任じられました。
尚服は福島藩9代板倉勝俊の七男で、
3人の男子が早逝した尚典の養子となり、
文久3年に養父尚典の隠居で家督を相続。
講武所奉行、寺社奉行兼奏者番、
若年寄兼会計奉行などを歴任しています。
鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍に加担。
この戦いの敗北によって方針を転換し、
東山道先鋒総督府に恭順しており、
数度の謹慎と新政府軍参加により許され、
戊辰戦争に138名の藩兵を派遣しました。
この2名は共に明治18年に死去。
この本行寺墓地には加納藩永井家の分家で、
旗本寄合永井求馬家の墓所もあります。
「崇文院殿介堂日彰大居士」。
永井求馬家5代当主永井尚志の墓。
奥殿藩5代松平乗尹の長男でしたが、
家督が養子に譲られた後の子であった為、
求馬家4代永井尚徳の養子となりました。
部屋住のまま新規召出となり、
海防掛目付等を務めた後、
長崎に赴いて長崎海軍伝習所監理に就任。
軍艦教授所総督、勝手掛勘定奉行、
外国奉行、軍艦奉行等を歴任しますが、
安政の大獄で失脚しています。
文久2年に京都町奉行として復帰し、
同年に父の隠居に伴い家督を相続。
元治元年には大目付に任じられ、
諸問題の解決の為に交渉手腕を発揮し、
慶応3年には若年寄に昇進しました。
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、
江戸に戻って逼塞。
後に榎本武揚らと合流して蝦夷地に入り、
蝦夷共和国の箱館奉行に就任します。
箱館戦争で新政府軍に降伏し、
投獄、放免を経て開拓使御用掛に任じられ、
明治8年に元老院権大書記官となりますが、
翌年に免職されて隠居しました。
明治24年、死去。
加納藩永井家のその他の藩主の墓所は、
中野区の功雲寺にあったようですが、
現在は既に無い模様です。
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加納藩永井家の居城跡。
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永井宗家の墓所。