龍宝寺は台東区寿にある浄土宗の寺院。
僅か200m南の台東区蔵前に、
同じく龍宝寺の寺号を持つ寺がありますが、
こちらは天台宗の寺院です。
寿の龍宝寺は鯉寺の通称で呼ばれ、
※蔵前の龍宝寺は通称川柳寺。
境内に大鯉の供養塔がある事で知られます。
「龍宝寺」。
徳川家康が関東に転封となり、
これに伴い是応大和尚も江戸へ移住。
是応が一寺の建立を願ったところ、
酒井重忠が寺院を創建したようで、
江戸時代には6ヶ院を擁す大寺となり、
鎮西派白籏正流の大梵刹となっていました。
「鯉塚」。
嘉永6年に門前の浅草新堀川で、
突如四尺五寸(1m36.5cm)程の大鯉浮かび、
町の人々がこれを捕獲しようとしますが、
大暴れして捕まえる事が出来なかった為、
船を出して若者数名が川に飛び込み、
各自が刃物や竹槍などで突き刺し、
大鯉が弱ったところをどうにか捕まえて、
龍宝寺の庭池に放ちましたが、
3日後に大鯉は死んでしまいました。
※そりゃそうでしょうね。
ある意味3日も生きた事に驚き。
その夜に人々勢集まってこれを食べると、
高熱に魘され吐血する者が出て、
多くの者が40日余りも苦しんだようで、
特に料理人2人と他4人は相次いで悶死。
遺族はこれを祟りとして供養碑を建立し、
大鯉の霊を篤く弔いました。
いつしか供養碑が霊験あらたかとされ、
安産子育、開運出世、縁結びにと、
江戸中の評判になっています。
この供養碑は関東大震災で破壊されますが、
昭和12年に有志によって再建。
しかし東京大空襲によって再び破壊され、
戦後に再々建されて現在に至っています。
龍宝寺墓地は境内の道向かいの東側。
一番奥に小見川藩内田家の墓があります。
「子爵内田家累代之墓」。
小見川藩内田家は800石の旗本でしたが、
初代内田正信が将軍徳川家光の小姓となり、
1万5000石の鹿沼藩を立藩しましたが、
正信は家光の死去に伴い殉死。
3代内田正偏が叔父らに2000石を分与し、
1万3000石となっていましたが、
後に乱心したとして3000石を減封され、
強制隠居のうえ蟄居となりました。
家督は4代内田正親が相続し、
1万石で小見川藩に移封。
以後は1万石のまま維新を迎えています。
11代(小見川藩8代)内田正徳は、
日光祭祀奉行、大坂城加番等を務めており、
文久2年には軍艦奉行に就任しますが、
その翌年に病死。
12代(小見川藩9代)内田正縄も、
兄の死後に養子となり家督を継ぎますが、
その正縄も翌年に病死してしまいました。
最後の13代(小見川藩10代)内田正学は、
分家からの末期養子として家督を相続。
比較的早い段階で新政府に恭順した様で、
房総周辺の不穏な動きに対応しています。
版籍奉還に伴い小見川藩知事に任命され、
廃藩置県で藩知事を免官されていますが、
正学は西南戦争で三等中警部心得で参戦。
後に陸軍に入って大尉となっており、
日清戦争にも歩兵連隊副官で従軍しました。
その後は除隊して貴族院議員に就任し、
死去まで議員を務めました。
この累代墓は珍しい仏塔型をしています。
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