松坂城は紀州藩の支城。
蒲生氏郷が伊勢国の12万石を与えられ、
飯高郡矢川庄の四五百森に築城した城で、
城下町も整備して住民の強制移住や、
楽市楽座の設置等を行い、
旧領の近江商人も呼び寄せており、
商業都市の礎を築いています。
氏郷は後に会津に加増転封となり、
代わって服部一忠が入封しますが、
豊臣秀次事件に連座して切腹となり、
次に古田重勝が入りました。
古田家は後に浜田藩に移封され、
松坂を含む南伊勢は紀州藩領となり、
一国一城令の例外として存続し、
周辺地域の統治拠点となっており、
和歌山から城代が派遣されています。
訪問時は雨が降ったり止んだり・・・。
濡れながらの登城となりました。
「表門跡」。
野面積みの石垣が見事な表門跡。
松坂城は石垣の見事さで知られます。
表門を過ぎて左に進んで二の丸跡へ。
「徳川陣屋跡」。
徳川陣屋とは御殿の事のようです。
紀州藩の支城は4つありますが、
田辺城、新宮城、田丸城と城主が定められ、
安藤家、水野家、久野家が務めますが、
松坂城は城主が定められずに、
城代や奉行が派遣されており、
この二の丸で地方行政が行われました。
「御城番屋敷」。
二の丸跡から望む御城番屋敷。
城下を警護した御城番が住んだ武家屋敷で、
現存する武家屋敷でも最大規模のもの。
御城番は横須賀組と称され、
横須賀城を守った武士団でしたが、
御三家創設に際して徳川頼宣に配属され、
田辺城主安藤直次の配下となります。
しかし安藤家との諍いでその職を追われ、
紀州藩に帰参したのは文久3年。
松坂城の城番勤務を職を与えられ、
この御城番屋敷に移り住みました。
現在も人が住んでいる様子です。
「隠居丸跡」。
本居宣長旧宅(鈴屋)や桜松閣が移築。
訪問時は閉館していました。
隠居丸という曲輪ですが、
誰が隠居していたのでしょう?
歴代城主は隠居しておらず、
江戸期に城代が隠居するとも思えません。
本居宣長については、
別の記事で説明する事にします。
「本丸下段跡」。
本丸は上下段に分かれていたようです。
下段には月見櫓、太鼓櫓、遠見櫓があり、
多門櫓で連結されていたらしい。
「本丸上段跡」。
蒲生氏郷の居館があったとされており、
充分な広さを持っています。
「天守台」。
天守は三層であったようで、
敵見櫓が付随していたようです。
天守は正保元年(1644)に台風で崩壊。
以後は再建されていません。
「金ノ間櫓跡」。
金箔を貼った部屋があったとされる櫓で、
台所まであった事から、
来客時に使用されたとされています。
勿論蒲生時代の話。
「きたい丸跡」。
不思議な名称の曲輪ですが、
その名の由来は古田重勝の長男で、
後の浜田藩主古田重恒の幼名稀代丸から。
重勝の死後に幼少であった事から、
次代は叔父の古田重治が相続しており、
ここに幼い稀代丸が居住していたという。
きたい丸跡より本丸下段へ。
助左衛門御門より下城します。
「歴市民俗資料館」。
明治45年に図書館として建てられ、
昭和53年に歴史民俗資料館となったもの。
幕末の松坂城代は弘化4年より松平図書、
安政元年より三宅源左衛門、
安政4年より藪九郎太郎、
文久3年に西山与七郎、
元治元年より山高左近、
そして慶応2年より酒井伊織と代わり、
慶応3年に城代職は廃止されています。
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