文久3年8月17日。
河田佐久馬ら鳥取藩の尊攘派22名は、
藩論を尊皇攘夷へ移行させようとし、
京都駐屯の鳥取藩の本陣本圀寺で、
佐幕派藩士黒部権之介、高津省己、
早川卓之丞、加藤十次郎の4名を襲撃。
偶然にも非番であった加藤を除き、
黒部、高津、早川、早川の従者の4名が、
彼らによって殺害されました。
※加藤も後に切腹。
襲撃した22名の内1名は切腹し、
1名は行方不明となっており、
残り20人となった同志らは、
※因幡二十士と呼ばれています。
京都良正院から伏見藩屋敷に移されて、
翌年に国許の泉龍寺へ幽閉。
その翌年に家老荒尾志摩邸へと移されます。
二十士は第二次長州征伐の噂を聞き、
長州藩に合流して共に戦おうと脱出。
廻船問屋下天野屋の中原吉兵衛の援助で、
海路美保関を経て手結浦へ寄港しました。
しかし浦役人に怪しまれた為、
託間樊六、太田権右衛門、吉田直人、
中野治平の4名と、
船を用意した吉兵衛の弟で、
彼らに同行した中原忠次郎が交渉し、
残りは密かに出航して脱出します。
※河田佐久馬の弟河田精之丞(景福)は、
有栖川宮に報告するの為一人京都へ。
これを知った黒部らの遺族は、
手結に駆けつけて残った5名を討ち、
黒部らの仇を討ちました。
その討たれた因州藩五士の墓が、
禅慶院裏手の墓所に建てられています。
「禅慶院」。
手結の集落にある曹洞宗の寺院。
由緒はよくわかりませんが、
本堂は総欅造りの立派なもの。
5士の遺品を展示する記念館もあります。
五士の墓は裏手にある墓地の頂上。
「詫間樊六他四士顕彰碑(右)」、
「大歇院殿利應休心居士
真心院殿一菴全刀居士
為範院殿賢遊是心居士
※以下破損(左)」。
五士の顕彰碑と合葬墓。
脱走の報に黒部らの遺族は仇討ちを考え、
藩に願い出て追討に向かいます。
藩政府も松江藩に通報して、
脱走船の抑留を依頼していた為、
この通報を受けた黒部らの遺族18名は、
浦役人の案内で宿所の民家を襲い、
黒部らの仇討ちを果たしました。
「手結浦」。
山陰の田舎にある小さなの港。
風待ちの為に寄港したようで、
二十士も手配がここまで至っているとは、
思ってなかったのかもしれません。
脱出した残りの一行は、
石州鳥井浦に無事到着しており、
大森で長州藩兵と合流しています。
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