東京都台東区 谷中霊園/大橋訥庵墓所

坂下門外の変を計画した大橋訥庵の墓所。
訥庵は兵学者清水赤城の四男でしたが、
佐藤一斎を師事して儒学を学び、
日本橋佐野屋大橋淡雅の婿養子となり、
思誠塾を開いて儒学を指導しました。


大橋家墓所」。
佐野屋日本橋に本店を構えた呉服商で、
古着商両替商木綿の中継も行い、
関東一円に50店舗以上を持ったという。
元々は宇都宮の古着商だったようですが、
江戸に別店を興したようです。


淡雅大橋知良之墓」。
中央にある豪商大橋淡雅の墓。
淡雅は佐野屋菊池家の養子ですが、
菊池姓を名乗らなかったとのこと。
佐野屋大橋家の財は一代に築いたようで、
かなりの商才と強運を持っていたようです。
また淡雅は義商でもあったようで、
天保飢饉では私財を投じて救民に尽くし、
商人の道義と徳を大切にしたという。
嘉永6年、死去。


訥庵大橋君之墓」。
大橋訥庵の墓。
訥庵は嘉永3年より宇都宮藩邸で、
月1回の儒学の講義を行う程でしたが、
黒船来航以降は攘夷志向が強くなり、
外夷の打払い幕府に建言する等、
次第に過激になります。
※訥庵の主催した私塾思誠塾には、
 高杉晋作も出入りしたようですが、
 何らかの理由で嫌になったようで、
 次第に遠ざかっていったようです。

桜田門外の変井伊直弼が討たれた後、
幕政を主導した老中安藤信正は、
公武合体の為に和宮降嫁を進めますが、
訥庵はこれに激怒。
挙兵を計画しますが人数が集まらず、
水戸浪士らと安藤の暗殺を計画し、
安藤の斬奸趣意書を執筆します。
しかしこの計画が発覚して訥庵は捕縛され、
思誠塾が幕吏の捜索を受けるに至ると、
同士らは安藤暗殺を強行。
文久2年1月15日に坂下門外で、
老中安藤信正を襲撃しました。
しかし負傷させたものの暗殺には至らず、
実行犯6名は全員討死しています。
訥庵は7月8日に赦免運動を経て放免。
宇都宮藩預りとなっていますが、
間もなく毒殺されてしまったという。

坂下門外の変は失敗しているからか、
桜田門外の変と比べて極めてマイナー。
しかしながらこの事件で安藤は失脚し、
隠居謹慎のうえ2万石も減封されています。

墓所は谷中霊園内の天王寺墓地

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東京都千代田区 江戸城 西ノ丸下
 坂下門外の変の事件現場。
東京都荒川区 南千住 小塚原回向院
※坂下烈士の墓所。
福島県いわき市 良善寺/磐城平安藤家墓所
※襲撃された安藤信正の墓所。

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