宮崎県児湯郡 秋月墓地/高鍋藩秋月家墓所①

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高鍋藩秋月家の領内菩提寺は、
大龍寺安養寺龍雲寺の三寺で、
これらは高鍋城北側の丘にありました。
しかし廃藩後に三寺共廃寺となっており、
境内跡に墓所のみが残されて、
これが秋月墓地となっています。


秋月墓地」。
秋月家の墓所は3ヶ所に分かれており、
龍雲寺跡に初、3、6、7代、
安養寺跡に初代養嫡子(2代父)、
大龍寺跡に2、4、5、8~10代と、
それぞれ建てられています。
写真は大龍寺跡への石段。


秋月墓地(大龍寺跡)」。
石段を登ると広い墓域が広がります。
家臣らの寄進した石灯籠が立ち並び、
その奥側が藩主らの墓。


大洋院殿古巖宗帆大居士」。
2代藩主秋月種春の墓。
初代秋月種長の養嫡子秋月種貞の子で、
父が病弱の為に廃嫡された為、
嫡孫となって祖父の死去後に家督を相続。
若年での藩主就任であった為に、
藩政は家老の白井一族に専横され、
上方下方騒動と呼ばれる藩内闘争が発生。
多くの闘死者、出奔者を出しながら、
40年近くも騒動が続き、
その終了は次代になってからでした。


天祐院殿慶嶽宗善大居士」。
4代藩主秋月種政の墓。
3代秋月種信の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続します。
藩体制の整備や新田開発、
人材登用等を行うなど善政に尽くし、
21年の治世の後に隠居しました。


瑞應院殿恵山宗定大居士」。
5代藩主秋月種弘の墓。
4代種政の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
治水事業や山林整備等で善政を敷き、
領内で災害が相次いだ際も、
領民救済に尽くした名君だったという。
また藩主には文武を奨励しており、
藩校稽古堂を創設した他、
優秀な藩士らは積極的に遊学させ、
その学識を深めさせました。
24年の治世の後に隠居しますが、
その死まで実権を握っていたようです。


泰雲院殿前城州太守寶山宗真大居士」。
8代藩主秋月種徳の墓。
7代種茂の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続します。
生来病弱であったようで、
隠居の父に実権を握られ続け、
就任から19年後に父に先立ちました。


俊徳院殿前筑前太守寛道宗裕大居士」。
9代藩主秋月種任の墓。
8代種徳の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
祖父の健在中は実権を握られますが、
その死後は藩政改革等を行っています。
36年の治世の後に隠居し、
13年の余生を過ごしました。


高鍋藩知事秋月公霊」。
10代藩主秋月種殷の墓。
9代種任の長男として生まれ、
父の隠居し伴い家督を相続します。
藩政改革を目指し法令六八条を発布。
砂糖製造の推奨、学問奨励等を行い、
一定の成果を残しました。
戊辰戦争には藩兵を東北に派遣しており、
賞典禄8000石を永世下賜。
廃藩後の明治7年に死去しました。


従二位勲二等秋月種樹墓」。
11代当主秋月種樹の墓。
9代種任の三男に生まれ、
秀才の誉れ高く小笠原長行や、
本多正訥と共に天下の三公子と称され、
部屋住のまま学問所奉行となり、
文久3年には若年寄格を兼任し、
将軍徳川家茂の侍読になっています。
元治元年に役を辞していましたが、
慶応3年に再度若年寄に任じられますが、
側近の意見を取り入れてこれを辞退。
明治元年には新政府参与となり、
明治天皇侍読となりました。
以後は公議所議長大学大監
左院少議官等を歴任した後、
明治5年に欧米に留学。
帰国後は元老院議官貴族院議員を務め、
明治37年に死去しています。
漢詩、書、絵も得意であったという。

この他12代秋月種繁
13代秋月種英の墓もありましたが、
廃藩以降の当主なので割愛致します。

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