下関市赤間町 稲荷町 裏町遊郭跡

下関は壇之浦の戦いのあった地で、
栄華をほこった平家が滅び、
一緒に京から落ち延びた高級女官らが、
平家が滅んだ後に数多く残されました。
宮中で暮らしていたこれら女官達は、
この地で生きる術を持たず、
春を売るより他はありません。
そんな彼女らが春を売ったのが稲荷町で、
彼女らは漁師相手の遊女となりつつも、
平家の菩提を弔ったという。
高級女官であった彼女らは気位が高く、
客より上座に座ったとされ、
他の遊郭では履かない白足袋を履き、
その最高位を上臈と称しました。
稲荷町 裏町遊郭はこの格式を売りとし、
全国にもその名が知られ、
赤間関の発展と共に栄えています。

唐戸周辺は空襲によって破壊されており、
更地になってから区画が変更され、
道さえも変わってしまいました。
稲荷町 裏町も完全に破壊されており、
他の旧遊郭が赤線となったのとは違い、
完全に消失してしまっています。


赤間町付近」。
稲荷町 裏町遊郭があった辺り。
この道はほぼ南北に延びていますが、
当時はこの道は存在せず、
稲荷町通り裏町通りの2本の通りが、
稲荷社から南西方向に伸びていました。
上記の様に赤線にもなっていませんので、
遊郭風の建物も残ってはいません。
但し少々の飲み屋はあるようです。


旧赤間関稲荷町跡」碑。
稲荷町があった事を示す跡碑。


赤間ヶ関 裏町跡」碑。
裏町があった事を示す跡碑。
平行して伸びていた2つの通りの跡碑が、
同じ通り沿いにあります。


旧赤間関稲荷町跡(龍馬と下関説明板)」。
龍馬がかよったという枕言葉があります。
もちろん坂本龍馬も通ったでしょうが、
伊藤家(本陣)を拠点としてからは、
それ程行けなかったかもしれませんね。
※お龍は嫉妬深く機嫌を悪くしたらしい。


末廣稲荷神社」。
稲荷町の名の由来である稲荷社。
そもそも2つの通りは稲荷社の参道で、
表参道が稲荷町、裏参道が裏街でした。
この稲荷社も空襲以前は規模が大きく、
立派な社殿が建立されていたようです。
現在の社殿は昭和61年の再建ですが、
石段や石垣、玉垣は往時のものが現存。
この石段の直線上が稲荷町の通りでした。
下関市赤間町 末廣稲荷神社


大坂屋跡」。
稲荷町遊郭最大の妓楼大坂屋の跡地で、
東京第一ホテル下関の建物が建っています。
40年続いたこのホテルはコロナ禍の為、
残念ながら廃業したとのこと。
下関市赤間町 大坂屋跡


大坂屋跡」碑。
ホテル敷地内にある跡碑。
大坂屋は巨大な木造3階建だったようで、
300人収容の歌舞伎舞台もあったとされ、
その舞台は湯島芝居より広かったという。
当主は代々木村太良右衛門を名乗り、
全国にその名を知られた大妓楼として、
稲荷町遊郭の象徴となっていましたが、
新地豊前田遊郭の台頭により、
明治期に廃業しています。

平家の女官をその由緒とし、
気品を売りに名を轟かせた稲荷町 裏町。
幕末には多くの西国志士が足を運んでおり、
歴史的舞台にもなった場所ですが、
空襲で完全に消失しました。
道筋自体も変わってしまっていますので、
跡碑のみがその痕跡を伝えています。

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