島根県浜田市 松平周防守家墓所

浜田藩の幕末期の藩主家は、
越智松平家が務めましたが、
その前は松井松平家であった為、
松平家が続いて非常に紛らわしい。
今回訪問した松平周防守家墓所は、
松井松平家(周防守家)のもので、
幕末期は川越藩の藩主となった家。
松井松平家は浜田藩の藩主を178年間務め、
深く浜田に関わっていた藩主家でしたが、
竹島事件により棚倉藩に転封されます。


松平周防守家墓所」。
久光山八幡宮の北側にある墓所。
ここには松井松平家の菩提寺長安院があり、
同家の転封に伴い移動してきたようです。
後に棚倉転封に伴い長安院も移転しますが、
本堂三隅龍雲寺に移転され、
現在も本堂として残っているとのこと。



玄峯院殿前信州朝散大夫
 頂譽俊通大居士
(右)」、
自通院殿霊譽沖寵妙關大居士(右2)」、
泰巌院殿〇〇〇〇〇〇
 〇〇大居士 神儀
(左2(風化で読めず))」、
清崇院殿順譽徳風民興大居士(左)」。
4代世嗣松平康房の墓、
6代当主松平康福の墓、
4代当主松井康員の墓、
7代当主松井康定の墓。
※墓所に表示されている標柱の代数は、
 松平康親を初代としていますが、
 立藩の当主は次代松平康重であるので、
 ここでは康重を初代として数えています。
4代世嗣康房は3代当主松平康宦の次男で、
4代康員の養嫡子となっており、
5代将軍徳川綱吉に拝謁し、
従五位下信濃守を叙任されていますが、
家督を相続する事無く病死しました。
4代康員は3代康宦の長男に生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しますが、
康房亡き後に養子とした松平康豊に、
僅か4年で家督を譲って隠居。
その3年半後に江戸で死去しています。
6代康福は5代康豊の長男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
奏者番寺社奉行大坂城代老中を経て、
最終的に老中首座となっており、
その間に浜田藩から古河藩岡崎藩と転封し、
最後に再び浜田藩に戻りました。
7代康定は高家旗本前田房長の三男で、
※房長は松井松平家庶流の高家旗本出身。
嗣子のいない6代康福の養嫡子となり、
養父の死去に伴い家督を相続しました。
奏者番や寺社奉行を務め、
藩校長善館を創設する等しています。

浜田藩の藩主は3代(2代藩主)康宦、
5代(4代藩主)康豊が浜田で没しており、
2代(初代藩主)康映は江戸で死去しましたが、
遺言によってこの長安院に葬られ、
3人の藩主の本墓があったという。
その他の藩主は江戸で死去しており、
この長安院には拝墓が建てられ、
歴代の墓が並んでいたという。
その後に松井松平家が棚倉に移封される際、
3人の本墓は京都の長安院に改葬され、
※黒谷金戒光明寺の塔頭。
残された拝墓がこれらの墓とのこと。

一段下には家臣らの墓が並んでいます。

新清敬文公」。
浜田国学の祖新清元麿の墓。
2代康映の甥だった人物です。
浜田藩は国学が盛んでしたが、
残念ながら松井松平家の転封により、
浜田国学は衰退しました。


大量員殿秀譽栄山長卿居士」。
浜田藩国家老岡田頼母の墓。
財政難に苦しむ浜田藩は、
藩ぐるみで密貿易を行っており、
巨額の富を得るに至ります。
※御用商會津屋八右衛門が提案したという。
しかし幕府隠密間宮林蔵に探知され、
関与した頼母、国年寄松井図書が切腹となり、
勘定方橋本三兵衛、會津屋八右衛門は斬首、
藩主松平康任は永蟄居処分。
そして棚倉藩への懲罰的転封が行われ、
松井松平家の浜田藩は終焉しました。
頼母は密貿易に関与した罪人ですが、
領民への負担を強いらずに、
財政再建を目指した事で、
地元では評価が高いようです。

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福島県東白川郡 棚倉城跡
 松井松平家が転封した棚倉藩の藩庁。