左遷藩このような言葉は江戸時代にはなく、
近代以降の造語であるらしいのですが、
一般的に山形藩と棚倉藩の2藩は、
この不名誉な造語で呼ばれます。
左遷とは閑職や低い地位に追いやり、
地方等に飛ばされる事で、
譜代大名が失脚した際、
この2藩に転封される事が多かった為、
そのように呼ばれるようになりました。
確かに藩主家は9家も代わっており、
その理由は様々ながら刑罰的な転封で、
流石に左遷藩ではないとは言い難い。
最初の立花宗茂は関ケ原で改易となり、
後に棚倉藩で大名に返り咲いた後、
旧領の柳河藩に転封となります。
代わって丹羽長重が古渡藩より入封し、
後に白河藩へ加増転封。
この2人は改易から大名に返り咲き、
更には後に10万石を得るに至り、
どちらかというと縁起の良い藩といえます。
次に譜代内藤信照が入って3代続きますが、
これも別に左遷的な要素は感じられません。
そして太田資晴、松平武元と入封しますが、
こちらも懲罰的な転封の感は無く、
次小笠原長恭から懲罰的になりました。
長恭は掛川藩で盗賊の横行を取り締まれず、
懲罰的な転封を命じられています。
更に浜松藩から転封した井上正甫は、
農家の女房に手を出した噂で、
松平康爵は李氏朝鮮との密貿易で、
阿部正静は兵庫開港要求事件で、
それぞれ懲罰的に転封となりました。
※これらとは別に戸田忠恕は、
天狗党鎮圧の不手際で減封され、
棚倉藩に転封される事が決まりますが、
山稜補修の功績で中止となっています。
ここまで続けば左遷藩の名も相応ですが、
各家の末代は後の幕政で出世しており、
汚名を返上しているようですので、
立花、丹羽にあやかる出世藩ともいえます。
「奥州棚倉城絵図」。
棚倉城は丹羽長重が築城した平城で、
※立花宗茂は御伽衆で定府していた為、
赤館という古い山城を藩庁としました。
都々古別神社を遷宮させてその跡地に築城。
中心の本丸を帯状に二ノ丸が囲み、
更に三ノ丸が付いた梯郭式の城でした。
「大ケヤキ」。
本丸大手前の大きなケヤキの木。
この大ケヤキは神社時代の御神木とされ、
形が優れていた為にのこされたという。
「内堀」。
現在は内堀と本丸を囲む土塀が現存し、
当時を偲ぶことができます。
「亀ヶ城址」碑。
大手枡形跡付近にある跡碑。
棚倉城は別名「亀ヶ城」と呼ばれており、
お堀に住むという大亀が浮かぶと、
お殿様が転封されると噂されました。
左遷藩らしい逸話ですね。
「本丸跡」。
本丸には本丸御殿が建てられており、
藩政の中心として機能していました。
周囲は高い土塀で囲まれて、
四方に隅櫓が建てられ多聞櫓で結ばれ、
相当に厳重なものであったという。
その割に二ノ丸以降が簡素に造られており、
それ程の防御力のない城だったようです。
慶応3年に白河藩より阿部正静が入封。
この幕末末期のごたごたの中で、
列藩同盟軍として戊辰戦争に参加しました。
は正静は自ら白河戦争に参加し、
阿部内膳率いる十六ささげが奮戦。
しかし新政府軍に棚倉城が攻撃され、
防御力の低い棚倉城は僅か1日で陥落し、
残兵は飛地領の保原陣屋まで逃れています。
戦後に正静は強制隠居させられ、
養子阿部正功が6万石で家督を相続。
明治4年に廃藩置県を迎えました。
【棚倉藩】
藩庁:棚倉城
藩主家:松井松平家(慶応2年に川越藩へ)
:忠秋流阿部家(慶応3年に白河藩から)
分類:松平家6万石、譜代大名
:阿部家10万石→6万石、譜代大名
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棚倉転封前の阿部家の居城。
・広島県福山市 福山城
福山藩阿部宗家の居城跡。