福島県白河市 白河小峰城

白河小峰城南北朝時代に、
南朝方の結城親朝が築城した城。
白河結城家が奥州仕置で改易された後は、
上杉家蒲生家の支城となり、
後に丹羽長重が白河に入封して以降、
7家21代の大名の居城となりました。

白河は奥羽の玄関口で要衝の地であった為、
外様大名に睨みを利かす譜代大名が入封。
丹羽家を除き、譜代の榊原家
本多平八郎家奥平松平家
越前松平家(前橋)、久松松平家(桑名)、
阿部家(忠秋流)と代わります。
幕末の阿部家白河藩7代藩主阿部正外は、
老中として幕政に参加し外国交渉を担当。
兵庫開港を無勅許で調印をしたとして、
蟄居謹慎を命じられて棚倉藩へ転封となり、
白河領は幕府の直轄領となりました。

白河小峰城は二本松藩の預かりとなり、
二本松藩兵や仙台藩兵が駐屯しましたが
そこを会津藩が白河を抑える為に攻撃し、
駐屯兵は戦わずに火を放ち退却。
後に斎藤一率いる新選組130名も合流し、
土方歳三宇都宮戦争で負傷療養中。
新政府軍を迎え撃つ拠点とします。
総督西郷頼母、副総督横山主税も入城し、
会津藩に同情的な仙台藩や二本松藩、
棚倉藩も援軍を派遣しており、
総勢2千500名の兵力で、
新政府軍を迎え撃ちました。


城山公園」。
白河小峰城跡は城山公園として整備され、
本丸前御門御三階櫓が復元されています。


二ノ丸跡」。
現在は公園広場となっている二ノ丸跡には、
武家屋敷が立ち並んでいたようです。
昭和27年には城山球場が整備され、
セ・リーグの公式戦なども行われましたが、
昭和62年に撤去されました。


清水門跡」。
清水門は本丸への正門だったようで、
当時は巨大な櫓門が建てられていました。
市で清水門復元が計画されており、
将来的に雄姿が拝める事になるようです。


桜御門跡」。
清水門より左に進むとある小規模の門跡。
勝手口として使われていたと思われますが、
小さいながらも枡形を形成。
右側の石垣は円を描くように組まれており、
美しい模様のようになっています。


前御門」「御三階櫓」。
前御門は本丸御殿への正門。
御三階櫓は白河小峰城の実質的天守で、
双方とも江戸時代の絵図に基づいて、
伝統工法による木造建築で復元されたもの。
三階部分が非常に小さいのが特徴です。


御本城御殿(本丸御殿)」。
白河小峰城は本丸に御殿があるタイプの城。
二ノ丸より息は切れずに登れたので、
当時もそれ程不便ではなかったのでしょう。
現在は忠魂碑などが建てられています。
西側と北側には高く土盛がされており、
東側には御三階櫓と前御門、
南側には多聞櫓があったようです。


阿部子爵之碑」。
棚倉藩2代藩主阿部正功の碑。
正功は白河藩6代阿部正耆の長男でしたが、
幼少であった為に家督は継げず、
家督は分家の旗本阿部正外が継ぎました。
正外が幕府より隠居を命じられた後は、
正外の長男阿部正静が家督を継ぎ、
阿部家は棚倉藩へ転封されています。
その後の戊辰戦争で新政府軍と戦った為、
正静は強制隠居処分となり、
正功が4万石減封で家督を継ぎました。
廃藩置県後は慶應義塾に学んでおり、
地学人類学考古学等を研究しています。
篆額は西園寺公望

西側の土盛に登る。

丹羽長重公築城址」碑。
白河小峰城は南北朝時代の古い城ですが、
丹羽長重が白河藩に入封して城郭を改修し、
近代城郭に生まれ変わっています。
ここは北西端の雪見櫓があった場所で、
皆既日食を初めて観測した場所でもあり、
米国D.P.トッド博士が最新機材で撮影し、
数枚の部分食を撮影したという。

御三階櫓のある北側の土盛へ。

おとめ桜の碑」。
丹羽長重が城の大改修を行った際に、
本丸の石垣が何度も崩れ落ちた為、
人柱を立てることが決まって、
最初に城に来た者を人柱とする事とします。
そして偶然にも作事奉行の娘が、
父に会い最初に城に来た為、
不運にも人柱にされてしまいました。
この人柱にされた娘「おとめ」を偲び、
改修完了後に桜が植えられて、
おとめ桜とよばれたという。
城には人柱伝説がつきものですね。

最後に城の北側へ。

川を利用した天然の堀高石垣が聳えます。
北側の防御を想定しているようで、
眺めの雰囲気はガラリと変わります。

新政府軍は伊地知正治が700名を率い、
兵を3つに分けて三方より進軍。
本隊は多くの旗を掲げて大軍に見せかけ、
同盟軍の布陣する稲荷山を砲撃しました。
同盟軍は稲荷山に戦力を集中させますが、
左右の山が手薄になってしまい、
新政府の別動隊がこれを占領。
その勢いで城も落とされてしまいます。
同盟軍は副総督横山主税や、
棚倉藩家老阿部内膳など、
683名の戦死者を出す大敗北を喫し、
白河小峰城を占領されてしまいました。

同盟軍は白河小峰城の奪還を目指し、
細谷十太夫衝撃隊(鴉組)等が、
各所でゲリラ戦を展開。
新政府軍を大いに悩ませた後、
軍の再編を完了させて総攻撃を敢行。
しかし新政府軍の兵力も増強しており、
幾度も攻撃を繰り返しますが落とせず、
西郷頼母は総督を罷免されています。
その後も攻撃が行われましたが、
それでも白河小峰城は落ちず、
周辺が新政府軍の支配下となった為に、
同盟軍は白河小峰城奪還を諦めました。

白河小峰城は北からの攻撃を想定した城で、
南からの攻撃では容易に落ちますが、
奪還を目指す同盟軍の北からの攻撃では、
強力な防御力を発揮するに至りました。
同盟軍戦死者は927名とされ、
この戦いが後の戦局を左右したという。
白河市街には両軍の慰霊碑が散見され、
その数は29にものぼるという。
城下や周辺は戦火で焼失したようですが、
白河の民は両軍戦死者を手厚く弔い、
今も香華が手向けられているようです。

白河藩幕領(二本松藩預り)】
藩庁:白河小峰城
藩主家:忠秋流阿部家→幕府領
分類:10万石、譜代大名

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