広島県福山市 福山城

元和5年(1619)、
徳川家康の従兄弟であった水野勝成は、
長州藩、広島藩西国外様大名の抑えとして、
備後国備中国の計10万石が与えられました。
入封時に割り当てられた居城は神辺城でしたが、
神辺城は何度も落城した城であった事から、
新規に城が建設される事となります。
一国一城令後の異例の築城。

築城地は交通の便の良い常興寺山に選定し、
南側の干潟が干拓されて城下町が形成され、
地名も福山と改められました。
城の用材には神辺城や伏見城のものが使用され、
福山城は3年の歳月を掛けて完成。
複合式五重天守と20を超える櫓を備え、
西国外様大名に睨みを利かせています。

勝成は福山で藩政に注力し城下町の整備を行い、
治水事業鉱山開発イグサ生産の奨励、
煙草栽培の奨励など福山藩の基礎を築き、
以後、水野家が5代統治しました。
※水野家の統治期間に一揆は起きなかった。

しかし5代水野勝岑が継嗣なく死去し、
水野家は無嗣改易となってしまい、
代わって山形藩より松平忠雅が10万石で入封。
次に阿部正邦宇都宮藩より入ります。
以後は阿部宗家が9代続きました。


福山城公園」。
現在の福山城は福山城公園として整備されて、
三ノ丸跡南側にはJR福山駅の線路が敷かれ、
新幹線ホームからは天守などが間近に見えます。
・・が、現在リニューアル耐震工事の為、
立入は2022年まで制限されていました。


水野勝成像」。
二の丸上段東側に建てられている水野勝成の像。
父の水野忠重は家康の母於大の方の実弟で、
勝成は家康の従弟にあたります。
忠重が織田信長の家臣となった為に、
勝成も家康の許を離れていますが、
本能寺の変後に父の許を離れて家康に帰参。
天正壬午の乱に参加して武功を挙げました。
しかし忠重の部下を斬り殺したことから、
忠重と対立して出奔し、
仙石秀久佐々成政黒田孝高小西行長
加藤清正立花宗茂などに仕えますが、
いずれも出奔しています。
流浪生活を送った後に家康に再び仕え、
父忠重とも和解。
忠重が加賀井重望に殺害されると、
その跡を継いで水野家当主となりました。
大坂の陣にも冬の陣、夏の陣双方に出陣。
夏の陣には先鋒大将に指名され、
戦功第二と称される活躍を見せ、
郡山藩6万石、後に福山藩10万石に、
加増転封となっています。
島原の乱では九州諸藩以外で唯一参戦。
隠居後も藩政に関与し、
88歳で福山城で死去しました。


福山城天守」。
残念ながら耐震工事中で養生幕に覆われた天守。
福山城天守は廃城後も解体を免れ、
戦前は旧国宝指定されていましたが、
空襲によって焼失してしまい、
昭和41年に復興されました。
鉄筋コンクリート製の天守で、
内部は福山城博物館となっています。


鏡櫓(右)」「月見櫓(左)」も耐震工事中。
上記したように伏見城の用材が使用されており、
鏡櫓は新築、月見櫓は伏見城からの移築でした。
しかしこれらは廃城の際に取り壊されており、
昭和41年以降に双方が外観復元されたもの。
その外観も拝めないのは残念です。


御湯殿」。
こちらは養生幕が張られていませんでした。
文字通りお風呂のあった建物で、
伏見城にあった伏見御殿に付随した建物。
旧国宝に指定されていましたが戦災で焼失。
他の本丸の櫓と同様に復元されています。


筋鉄御門」。
こちらも伏見城から移築したもの。
柱や扉に筋鉄が施されていることから、
筋鉄御門とよばれました。
この筋鉄御門は焼失を免れた現存建築物で、
国指定の重要文化財に指定されています。
こちらから少しだけ本丸跡内に入れました。


鐘櫓」。
櫓内に時を告げる太鼓が備えられ、
時の鐘と半時の太鼓を打っていたとされます。
補修を繰り返して原形を留めていませんが、
こちらも戦災を免れた現存建築物。


伏見櫓」。
本丸西南角にある三層三階の隅櫓。
伏見城松ノ丸にあった櫓で、
これも数少ない伏見城現存建築物。
二階梁に移築を表す刻印があるようです。
国指定重要文化財。

筋鉄御門を出て二ノ丸西側へ。

阿部正弘之像」。
福山藩7代阿部正弘の銅像。
25歳で老中となり老中首座水野忠邦と対立。
水野を失脚させて老中首座に就任しています。
12代将軍徳川家慶
13代徳川家定の治世に幕政を統括し、
幕末前期の対外的脅威が問題に対応しました。
外様の島津斉彬や親藩の徳川斉昭など、
身分などに関わらず幅広く意見を求め、
才能や経験を重視した人材登用を行っています。
ペリー来航の国難にも広く意見を求めますが、
何ら有効的な対策を打ち出すことが出来ず、
幕府の権威を弱める一因となっており、
事態を穏便にまとめる形で日米和親条約を締結。
攘夷派、開国派の取りまとめに苦心しつつ、
老中在任中に急死してしまいました。

二ノ丸西側より北西の小丸山へ。

小丸山」。
小丸山は二の丸の西北にある小規模な丘陵で、
天然の城塞として北側の防御を担いましたが、
実質的には福山城の弱点だったようです。
慶応4年1月9日、
杉孫七郎率いる長州藩兵は福山城に進軍。
福山藩は城門を閉ざして籠城していますが、
長州勢はこの小丸山方面から福山城を攻撃。
福山藩から恭順の意が示されて停戦しますが、
結局は福山藩側に死者は出ず、
長州藩兵に数名の死傷者が出たようです。

この戦闘の2ヶ月前に9代藩主阿部正方が病死。
死は伏せられ小丸山に仮埋葬されていましたが、
長州藩はそれを知らず小丸山を攻撃しました。

現在の小丸山はふくやま美術館の庭園となり、
ゆかりの人物の碑や長屋門が移築されています。

鰐水江木先生碑」。
福山藩儒江木鰐水の顕彰碑。
庄屋の三男として生まれ、
藩医江木玄朴の養子となりますが、
儒学者を志して頼山陽に師事しました。
その後、大坂の篠崎小竹や、
江戸の古賀侗庵にも師事。
また、西洋兵学も洋書にて独学で学んでいます。
藩主阿部正弘に抜擢され藩校誠之館教授となり、
正弘が老中になると政治顧問となっています。
正弘没後も3代の藩主に仕えており、
長州征伐戊辰戦争にも出陣しました。
明治14年、死去。


舟里寺地先生之碑」。
福山藩の蘭学者寺地強平の顕彰碑。
福山藩士寺地幸助の二男として生まれ、
漢医学を学んて京都で開業していましたが、
蘭医学を志して長崎に遊学。
さらに江戸に上って坪井信道に師事した後に、
福山で開業して私塾で蘭書の講義を行いました。
日本に種痘術がもたらされると痘苗を手に入れ、
福山でこれを実施したとされています。
藩主阿部正弘が老中となると江戸に招集され、
蘭書の講義を命じられた他、
藩校誠之館の洋学寮教授に就任。
また関藤藤陰山本橘次郎らと東蝦夷を踏査し、
蝦夷開拓策を正弘に献策しました。
明治2年に同仁館病院の院長兼教授に就任。
明治8年に死去しています。


水野勝成公寿碑」。
京都の瑞源院に建立されていた水野勝成の寿碑
寿碑は生前に建てられる碑です。
廃寺となった後に放置されていたもので、
水野勝成公報徳会が福山城本丸跡に移転させ、
後に小丸山の現在地に再移転したもの。


旧内藤家長屋門」。
福山藩の重臣内藤家屋敷の旧長屋門。
戦災を免れた貴重な藩政時代の建物として、
小丸山に移築されたもの。

福山藩主阿部家は代々幕政に参加しており、
老中4人、大坂城代1人を輩出しています。
従って福山藩主の殆どは江戸に定府しており、
藩政に重きは置かれなかった為、
財政は常に逼迫して度々一揆も起こりました。
7代正弘は老中首座として日米和親条約を締結。
幕末前期の幕政に貢献していますが、
職務のストレスか老中在任中に急死しており、
次代阿部正教、次々代阿部正方は早逝し、
藩主不在で長州藩の攻撃を受けています。
江木鰐水や関藤藤陰らの活躍により、
この難局は切り抜けられますが、
恭順後の度重なる出兵で、
財政は破綻寸前であったという。

福山藩は松山西宮天保山に出兵した他、
箱館戦争に632名の藩兵を派遣しており、
千代ヶ丘台場の攻略にも貢献していますが、
戦死25名、負傷28名の損害を出しています。
論功行賞では賞典録6千石を賜っていますが、
財政には焼け石に水であったという。

福山城は新幹線駅に一番近い天守のある城で、
※三原駅の三原城は天守は無い。
新幹線の窓から天守を何度も見ていましたが、
やっと来れたと思ったら、
養生幕に覆われていました。
2022年以降にまた再訪が必要です。

【福山藩】
藩庁:福山城
藩主家:阿部宗家
分類:10万石→11万石、譜代大名

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