東京都台東区 谷中霊園/福山藩阿部家墓所

寛永寺谷中墓地にある福山藩阿部家の墓所。


福山藩阿部家墓所」。
福山藩阿部家は阿部定勝流の宗家で、
正勝の長男阿部正次を祖とします。
正次は大坂の陣で活躍して加増され、
数度の加増の後に岩槻藩8万6千石となり、
大坂城代を長期間務めました。
その後は岩槻藩で5代阿部正邦まで続き、
正邦が宮津藩宇都宮藩を経て、
福山藩に10万石で入っています。
福山藩となってからの阿部家は、
浅草の西福寺を墓所としていましたが、
関東大震災後の区画整理によって、
寛永寺谷中墓地に移転しました。


長生院殿尋譽耀海踞岸大居士」。
福山藩初代藩主阿部正邦の墓。
岩槻藩3代阿部定高の次男で嫡子でしたが、
父の死去の際に僅か2歳であった為、
定高の弟阿部正春が家督を相続し、
成長するまで藩主を務めています。
正邦の家督相続から10年後、
宮津藩へ転封させられており、
更に16年後に宇都宮藩に転封となって、
最後に福山藩へ移されました。
福山藩入封後は積極的に諸制度を定め、
藩政の基礎を作り上げますが、
入封後5年で死去しています。


徳輪院殿硯譽祐全壽山大居士」。
福山藩2代藩主阿部正福の墓。
初代正邦の四男として生まれ、
父の死去に伴い16歳で家督を相続。
先代同様に積極的な藩経営を進めますが、
百姓一揆水害飢饉幕府普請により、
多難な治世であったという。
34年の藩主在任の後に隠居し、
その後は21年も存命しています。


西閣院殿樓譽託方練契大居士」。
福山藩3代藩主阿部正右の墓。
2代正福の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
先代、先々代と違い藩政には関与せず、
幕政へ参画が主体であったようで、
奏者番寺社奉行京都所司代を歴任し、
老中へと出世しました。
しかしこの出世により藩財政は逼迫。
改善できぬままに死去しています。


熙徳院殿勇譽推心義山大居士」。
福山藩4代藩主阿部正倫の墓。
3代正右の三男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
先代からの財政難を克服する為、
様々な改革に取り組みますが、
一気の勃発や借入金の返済で難航。
幕政では田沼意次派に属して出世し、
老中に就任していますが、
田沼の失脚により辞任しています。
その後は財政再建に専念しますが、
藩内の綱紀の乱れは深刻だったようで、
これを正す為に藩校弘道館を創設。
※弘道館は後に誠之館に改称。
財政再建には徹底した経費削減や、
農政改革等を積極的に行いました。
34年の治世の後に隠居。


謙徳院殿満譽清高良節大居士」。
福山藩5代藩主阿部正精の墓。
4代正倫の三男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
奏者番、寺社奉行を経て老中に抜擢され、
6年間これを務めた後に病を理由に辞任。
その3年後に死去しています。


常徳院殿寛譽主善元良大居士」。
福山藩6代藩主阿部正寧の墓。
5代正精の三男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しており、
奏者番に任じられますが、
病気を理由に辞任しています。
藩政財政は変わらず逼迫し、
更に天災や凶作に見舞われますが、
何ら対策を講じた形跡はなく、
10年の治世の後に病を理由に隠居。
その後は40年も隠居しており、
明治3年まで存命しました。


良徳院殿高譽信義節道大居士」。
福山藩7代藩主阿部正弘の墓。
5代正精の五男として生まれ、
兄で6代の正寧の隠居に伴い家督を相続。
奏者番を経て寺社奉行に任じられ、
智泉院事件の采配が評価されて、
将軍徳川家慶に目をかけられたという。
天保14年(1843)に老中に就任すると、
老中首座に復帰した水野忠邦と対立。
弘化2年(1845)に忠邦を失脚させて、
自らが老中首座となっています。
諸外国が通商を求めて来航すると、
島津斉彬や徳川斉昭松平慶永等、
諸大名から幅広く意見を求めますが、
有効な解決策を打ち出す事が出来ず、
幕府の権威失墜に繋がっていきます。
嘉永7年にペリー艦隊が再来航すると、
日米和親条約を締結。
攘夷派開国派の争いが激化すると、
堀田正睦に老中首座を譲りました。
安政4年に老中在任のまま急死。


恭德院殿温譽覺了法性大居士」。
福山藩8代藩主阿部正教の墓。
6代正寧の長男として生まれ、
安政4年に7代正弘に養嫡子となり、
正弘の急死で19歳で家督相続しますが、
4年後の文久元年に病死してます。

9代藩主阿部正方の墓は福山にあり、
最後の藩主10代阿部正桓の墓は、
谷中霊園の甲9号9側にあります。

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