京都府綾部市 天王平奥都城

大本は明治25年設立の新興宗教ですが、
開祖出口なおは天保7年生まれで、
彼女も幕末に生きた人物。
現在の信者数は国内に17万人、
海外にも約9千人いるという。
派生した団体も多くあるようです。
※団体としての歴史や詳しい教義等は、
 このブログの趣旨ではありません。
 幕末に生きて後世に名を遺した人として、
 敬い顕彰するつもりで参拝しています。
 仮に記事内容が教義に反する事だったり、
 侮辱するような事がありましたら、
 お詫びして訂正いたしますので、
 記事にコメントお願いします。

 

天王平一ッ瀬奥城」。
信者の墓地である天王平墓地に、
歴代教祖の奥都城があります。
訪問時は季節が良かったのか、
敷地内の紅葉が綺麗でした。


歴代教祖奥都城」。
正方形の石垣に土を盛った奥都城。
前列右:開祖出口なお、
前列左:聖師出口王仁三郎
中列中央:2代教主出口すみ
中央左:4代教主出口聖子
後列右:3代教主出口直日
後列左:尊師出口日出麿
開祖出口なおは福知山に生まれ、
祖父は藩の御上大工を務めていたとされ、
苗字帯刀を許されていたようですが、
父が酒のみで家は傾いていたという。
幼い頃から奉公に出て家計を助け、
19歳で婿を迎えますが、
出口政五郎は土地や田畑を売ってしまい、
借家住まいで貧困の中で暮らし、
11人の子を産み三男五女を育てました。
明治25年に神がかり状態に入り、
13日の断食をしたとされ、
翌年には放火の疑いで警察に留置され、
釈放後は40日間座敷牢に入れらています。
この頃より筆先(自動書記)が行われ、
出獄後は20万枚の半紙に筆先を残しました。
なおは金光教の傘下となりますが、
次第に対立するようになって独立。
明治31年に上田喜三郎(王仁三郎)に会い、
後の大本の原型が誕生します。
なおは末娘すみを後継をしており、
やがて王仁三郎はすみと結婚。
なおと王仁三郎の間には対立が起きますが、
筆先は王仁三郎によって大系にまとめられ、
大本神諭となりました。
大正7年、死去。

大本は政府より弾圧を受けたようですが、
大正及び昭和期の事ですので、
これについては触れる事は致しません。

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