鹿児島県出水市 出水麓武家屋敷群

薩摩藩は領内各地に外城(麓,郷)を設け、
そこに武士を配置して定住させて、
防備拠点として武家屋敷群を構成し、
独自の外城制度を確立させています。
外城は領内に120もあったとされ、
御仮屋と呼ばれた役所を中心に、
数本の馬場と細い道で町割され、
そこに武家屋敷が配置されていました。


竪馬場通り」。
薬医門を構えた武家屋敷が並ぶ馬場。
空積の玉石垣が連続し、
生垣を添えたその景観は非常に美しい。
出水麓は最も古く大規模の外城とされ、
他の外城も出水麓に倣いました。
現代に至っても町割が良く残っており、
重要伝統的建造物群保存地区に指定され、
出水市の観光名所となっています。


税所邸」。
上級郷士噯を務めた税所家の邸宅。
税所家は関ケ原の戦いの前年に、
加世田麓から移住してきた家で、
代々出水麓の要職を務めていました。
武家屋敷の多くは未だ住居であり、
中に入る事が出来ませんが、
この税所邸と隣の竹添邸は公開され、
屋内を見学する事が出来ます。


御仮屋跡(市立出水小学校)」。
御仮屋跡は出水小学校となっており、
その正門が現存しています。
薩州島津家豊臣秀吉により改易され、
出水麓は豊臣家直轄地となりますが、
後に慶長の役の恩賞として、
再び島津家に返還されました。
初代藩主である島津忠恒は、
重臣本田正親出水地頭に任じ、
和泉麓の整備にあたらせており、
正親は8年間在任して加世田地頭に転任。
代わって樺山久高が2代地頭になり、
22年間これに在任した後、
3代地頭山田昌巖の時代まで、
出水麓の整備が行われたようです。

昌巌は児子教育を重視し、
児請という出水麓独特の儀式を定め、
幼い頃から厳しく心身を鍛えて、
出水兵児と称される武士団を育成。
これが伝統として受け継がれ、
出水麓の独自の郷中教育の柱として、
維新後まで続いたとのこと。


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